第6話 絵画的なおぞましきものを

 我が家ではどうしようもない問題であるのは明らかなので、明日には警察に相談しようという結論に落ち着いた。広い家には部屋も布団も余っていのだが、布団の方は保管サービスに預けているのですぐには出せない。仕方がないので条の布団を楓に貸すことにし、条自身は伊智那と同衾してもらうことにして、母がそのための準備をしに席を立つ。条は姉を連れ立って部屋に行くことにした。三崎家の一階はダイニング・キッチンやお風呂、廊下などの一部を除けばほとんど畳の敷かれた和室である。対して二階部分は趣も洋風となり、部屋も床張りとなっていた。昔、子供部屋は二階にあったが、いつからか伊智那は和風が好いと云って一階の一室を自室に作り替えたのだ。

 そこそこ広いその部屋には常にお酒が満たされている。空き瓶やらなにやらがところ狭しと放り出されている以上に、肺が酔いそうな空気に条は参ってしまう。しかし同時に、金の背文字の専門書や漢籍、よくわからない外国語の古書も堆く積まれており、かと思うと最新式のデスクトップ・パソコンもある。それらが「伊智那っぽい」香りを構築している。しかし条はこの香りのことが決して嫌いではないのだった。

「僕は畳で寝――」

「一緒に寝たい」

「あ、はい」

 伊智那は困ったようにそそくさと窓を開け、心地よい晩夏の風が停滞して退廃した空気をかき混ぜた。

――突如、階下から悲鳴が響き渡る。

 条は伊智那と目を合わせて、それの大変奇妙なところを確認した。

「きゃぁっー!」

 という悲鳴は少しずれて二重に聞こえたのだ。そして初めは父の悲鳴だった。

 二人は急いで廊下を駆け抜け、ソファの上に絵画的なおぞましきものを発見し、絶句する。父はソファに押し倒され、ほとんど恐怖の表情を震わせながらも、怒りをみせている。その上で恍惚とした顔を上気させ、同時にひどく機械的に無機質な所作で触手のような指先を自身に這わせる楓は、胡乱として淫乱な目つきで「父親を犯そうとしていた」。

 逆ではないということは明らかである。遅れて悲鳴を上げた母親と同じように伊智那と条は自失の体で状況の正確な理解すらままならなかったが、父はそれでも必死に説得を続けていた。「無礼だ」「こんなことはよくない」「倫理的に」「何を考えている」といった意味をなす単語をぶつけるも、極めて気持ちの悪い形で欲情する化け物にはあまりにも無力であった。混沌として甘美が腐りきった能量に喰らわれる間際、絡みつく旧い悪魔のような半裸の体を父は今まさに蹴飛ばした。

「――っ!」

 少女は床に投げ出されて、吃驚した顔をしてそのまま痛みに泣き出してしまう。父は、はっとした顔をして後悔の色をのぞかせたが動くことも口を開くこともない。

「僕は思うのだけれど、倫理的、倫理学的、道徳的、宗教的、哲学的、社会通念上の倫理的という単語が明確に別物であることをはっきりさせた方がいいよね」

 条は伊智那が今のやりとりをみて、父親の「倫理的」と云った部分に最も興味を引かれたのかと批判的な気分になったが、すぐにそれが誤りであるということに気づいた。何が起こっているのか姉を含めて誰一人として理解していないのだ。加えて、姉が存外性的なものごとに対する耐性がないのだということに思い至った。役回り上、動けないであろう父に代わって、条は痛々しく泣く楓の身体に異常がないことをさり気なく確認し、そのままゆっくりお風呂に連れて行く。この時の彼女は驚くほど従順であったのだ。

 どうしてあんなことをしたのかと訊く気にはなれないが、電灯もつけずに風呂場に入ろうとする楓を見て思っていたように放置する気にもなれなかった。湯船に浸かってよいこと、自分は風呂の扉の外にいることを伝えると弱々しく頷いて返した。

 途中、伊智那がやって来て明日にも警察に相談することを伝えると、楓は狂気じみた抵抗をみせた。深海から響く不気味な賛歌のような声色で警察や少年鑑別所を拒絶した。悪い噂の絶えない公の機関はともかく、少年鑑別所のような組織に三崎夫婦が例え匿名でも相談することを先回りするように封じるのだ。妙なことだが、「少年鑑別所」や「法務省」という単語を知ってはいるが、それが何であるかという点の知識はまるでないようだった。そうであるにも拘わらず嫌悪感の伴う拒絶は揺らぐ気配もなく、これを見て伊智那はおどろおどろしく絶対的なものに盲目的に従う、と表現した。趣味で倒錯的、非倫理的、露骨に性的な絵やイラストを描く条ですら不気味に思ったのだから、伊智那や父母は楓をみてそれこそ拒絶するだろうと思ったのだが、叫び声を聞いて、彼らは伊智那を通してすぐに楓の要求に従うことを約束した。これは保身のため以上に、この少女がどこの深海からやって来たのか、少なくともその水質について暗黙に意見が一致しつつあったからだった。

「しばらく家に住まわせるが、私はなるべく関わらない」

 そのように父が宣言し、母娘は同意した。


 深夜、伊智那と父親はいくつかのリスクについて話し合い、学問的な事柄についても触れた。布団の中でこれを聞いて、条は、楓が被害者であるという確信について三人が一致しているようだと感じ、そのように感じる自身について不思議に思っていたが、声には出さず、姉の胸に顔をうずめてよく眠った。

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