第19話 彼は記憶を失い、人間になった

 ちょうどその頃──。

 リオンハールもまた、夢を見ていた。

 

「人間に決して近づいてはいけないよ。誤って殺してしまうからね。私たちは強いんだ。むやみに生き物の命を奪ってはならない。どんな生き物にも、家族がいるのだから」


 彼は、両親からそう言われて育った。

 けれど彼は人間観察をするのが好きで、家族にも仲間にも友達にも内緒で、砦を見に行った。

 人間のいる砦は、風が吹き荒ぶ見通しの良い荒野に建っている。石造りの四角い砦の左右には、防御壁が何百十キロにも渡って構築され、彼たちと人間の住む世界を分けている。

 人間は、魔物を人間たちの土地に侵入させたくないのだ。


「でもボクは、人間と友達になりたいんだけどなぁ……」


 魔物の中には悪いものたちもいて、人間の血肉を好む。そういった魔物は欲望のままに人間を襲い、砦付近では魔物と人間が頻繁に戦いを繰り広げている。


「ボクは光苔が好きだから、人間を食べなくてもいいんだけど……。それを言ったら、人間は友達になってくれるかな?」


 彼は砦を見下ろせる岩山に体を隠し、首を伸ばして人間の様子を観察する。

 彼の一番のお気に入りは、ブランドンという人間。なぜ名前を知っているかというと、男がそう叫んだからだ。


「わしの名はブランドン。来い、魔物! 相手をしてやろう‼︎」


 男は背が小さくて、長い眉毛が顔から飛び出している。顎から伸びる長い髭がかっこいい。

 強そうには見えないのに、男は腕力に長けていて魔物と素手で戦う。魔物の尻尾をぶんぶん振り回して、空高く放り投げる様は圧巻だ。


「わあ! かっこいい‼︎ あの人と友達になりたいなぁ」


 けれど彼は臆病だし、話すのが苦手。隠れている岩山からいつまでたっても、先には進めない。人間の前に出る勇気がでない。


 悶々としていた、そんなある日。砦から女の子が出てきた。

 彼の紫紺色の目はまん丸になり、「あああ……」と言ったきり、固まってしまった。

 女の子は天使のように可愛らしかった。

 金色の長い髪が太陽の光を浴びてキラキラと輝き、青い瞳は透明度の高い湖のよう。雪のように白い肌に、果実のようにふっくらとした赤い唇。ぷにぷにと押してみたい誘惑に駆られるほどの柔らかそうな頬。ほっそりとした華奢な手足。

 けれど彼の心を強烈に惹きつけたのは、天使の羽のようにふわりと柔らかい、優しい笑顔。少女の微笑みはすべてを包み込んでくれるような慈愛に満ちている。人間とは異質の彼さえも、受け入れてくれるように思えた。

 彼の心臓がものすごい速さで鼓動を刻み、目は女の子から離れたがらない。言葉が勝手に口から出てくる。


「可愛いっ!」


 女の子はしばらく、砦の前庭でブランドンと話していた。それから手を振ると、魔法使いが振った杖から黄金色の光が放たれて、女の子の体を包んだ。黄金色の光が消えたと同時に、女の子の姿も消えた。

 女の子は砦に遊びに来ていただけらしい。それ以降、女の子を見たことはなかった。

 女の子はもういないというのに、彼の頭の中から消えていかない。女の子の残像が瞼の裏に張りついてしまっている。

 彼は食事が喉を通らず、一日中、岩山から砦を見下ろす日々。

 そのうちにブランドンがいなくなってしまった。砦に在中する期間が終了したのだ。


「ボク、病気になっちゃったのかな……?」


 彼は、兄に相談することにした。

 兄はニヤリと笑った。


「それは恋ってやつだ。おまえは人間に恋をしたんだ」

「どうしたらいいの?」

「簡単さ。おまえが人間になればいい」

「えぇーっ! お父さんに怒られないかな⁉︎」

「安心しろ。黙っていてやるさ」

「ありがとう。でもどうやって人間になればいいの?」

「俺は闇魔術が使える。おまえを人間にしてやるよ」

「でもずっと人間でいるわけじゃないよね? お母さんが心配しちゃう」

「心配ない。おまえの好きなときに戻してやる」


 兄は頼りになる、と彼は思っている。周囲の者たちは兄の本質を見抜いて、「警戒した方がいい」と忠告したが、無垢な彼は兄の心にある邪悪さに気づかない。

 彼はしゃぎながら、兄が作った魔法陣の中に入る。

 魔法陣から噴きだす暗黒の光。強すぎる刺激に目をつぶっていると、兄は笑った。


「何事にも代償は付きもの。人間になる代わりにおまえは記憶を失う」

「ん? なに?」

「おまえは無垢だ。そしてバカだ。ドラゴン族の王に相応しいのはおまえじゃない。俺だ。……さよなら。邪魔者くん」

 どういう意味か問おうとして、彼の脳から記憶がスルリと抜けていく。なにを尋ねたいのか、兄がなぜ邪魔者と言ったのか。そして自分は何者なのか——記憶を失ってしまった。





 朝日を浴びて、リオンハールは目を覚ました。

 ゴシゴシと瞼をこすって、時計を見る。


「時間ぴったり! 目覚まし時計をかけなくても起きられるのが、ボクのすごいところ!」 


 簡単な朝ごはんを食べて、職場に向かう。


 王城仕えの魔法使いは優秀だが、傲慢な者が多い。面倒で地味な仕事をすべて、リオンハールに押しつけている。

 北の砦の任務スケジュール管理。北の砦の食事改善要望書まとめ。鬱になって休んでいる魔法使いへの様子伺い。王城魔法使いが各所で起こしたトラブルへの謝罪。各魔法使いのデスクの整頓。書類探しの手伝い。口論を起こした魔法使いたちの仲裁。魔法の技術向上会議のお茶汲み。


「真面目にコツコツ仕事をしてるけれど、この仕事内容ではいつまでたっても魔法使いとしてレベルアップしないよね? ユラシェの笑顔を守れるぐらいに強くなりたいんだけど……」


 ふと、今朝みた夢が頭をよぎる。


「またおかしな夢をみた。人間を遠くから眺めて、友達になりたいって憧れている夢。どうして何百回と同じ夢をみるのかなぁ?」


 夢の輪郭がぼんやりとしていて、形を成さない。夢に出てきた兄は、黒い影がしゃべっているようで、はっきりとした姿ではない。


「リオンハール少年はいるか?」


 魔法使い総務部、通称雑用係の部屋をカリオスが訪れた。

 先輩が間違って捨ててしまったスケジュール管理メモを探すためにゴミ箱を漁っているリオンハールに、カリオスは片眉をあげた。


「君の仕事は掃除係だったかな?」

「あ、これにはいろいろと事情がありまして……」

「まあ、いい。今度の休みの日、またヨルン様に変身してもらいたい。妹が君とパンケーキを食べたいそうだ」


 興奮するリオンハールにカリオスは釘を刺す。


「今度のデートで最後だ。デートが終わったら、君には職場を変えてもらう」


 明瞭に話すカリオスでも、ユラシェに会わせないために、魔物のいる北の砦に左遷するとは言いにくい。

 リオンハールは自分のいいように解釈した。


(職場が変わる? それって昇格⁉︎ やったぁ‼︎ これでようやく自信を持って、ユラシェに会える。デートが終わったら、自分の本当の姿で会いに行って、友達になってくださいってお願いしてみよう!)

 

 


 

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