第10話 まるで黒髪の魔法使い様みたい
二人は、開演三十分前のオペラ劇場に到着した。
ロビーに現れたヨルン王太子とユラシェから、人々はさりげなく目を逸らした。
ヨルン王太子がポスニシア国のミリィ皇女と結婚したことは、国中の者が知っている事実。
だがそのことを人々が迂闊に口にしてユラシェの耳に入ることがないよう、賢老院名誉長という、政治家としての頂点に立つブランドンがある法律を施行したのだ。
それは──。
【ユラシェがショックを受けないよう、ヨルン王太子が結婚したことは当分秘密にする。もしも話したら、一族根こそぎ牢屋に入れるぞ! 法】
ヨルン王太子は「権力を濫用しないでください! というか、法名がストレートすぎます‼︎」と苦情を出した。
だがブランドンは、「ハハッ!」と陽気に笑い飛ばした。
「愛する者を守る。これが権力の正しい使い方じゃ。小難しい法律用語を使って飾り立てるよりも、民衆に正しく伝わることの方が重要じゃ」
そういったわけで、オペラ会場に居合わせた人々はうっかりと口を滑らせて牢屋に入れられないよう、ユラシェから離れていく。
緊迫した空気が漂うロビーを、偽者ヨルンはうろうろと歩き回る。笑顔がぎこちない受付員からパンフレットをもらったものの、実際の会場とパンフレットに描いてある会場図が違うのである。
「うーん……。パンフレットでは階段があるはずなのに、なんで壁なんだろう? 隠し扉があって、その扉を見つけた者だけが階段を上がれるとか?」
「ヨルン様。パンフレットが逆さまです」
ユラシェはくすっと笑うと、ヨルンの手にしているパンフレットの上下を直した。
「あー、逆さまだったのか! どおりで階段が反対側にあると思ったよ!」
ヨルンは恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして、鼻の頭を掻いた。
ユラシェは、どうしてヨルンがおかしな言動をしているのか悩んだ末に、ある答えに辿り着いた。
(私の心を和ませるために、わざととぼけた演技をしてくれているのだわ。何度もオペラ劇場に足を運んでいるのだから、今さらパンフレットを見なくても特別観覧室に行けるのに……。病気をした私を楽しませようと、おどけてくださる。なんて優しい人なんだろう!)
完璧でスマートなヨルンが道化師の振る舞いをしている。その気遣いに、ユラシェの胸は感動でいっぱいになる。
ユラシェは感動している、そのままの視線をヨルンに送る。
恋しているお嬢様から熱視線を送られたリオンハールは、脈拍数が一気に上がって目眩を起こした。視界がぐらりと回転する。
──階段でつまづいてしまった。
「ぐえっ、いだっ‼︎」
「大丈夫ですか⁉︎」
「大丈夫れす! 脛を打っただけなんでぇぇぇ‼︎」
「脛を打つって、だいぶ痛いのでは?」
「このくらい平気です! ボク、男だし! このくらいで泣いたりしません‼︎」
(あああああ、やってしまったぁぁぁーーっ‼︎ 無様な姿を見せてしまった。ボクのバカバカ‼︎)
リオンハールはカリオスから「自然な成り行きで幻滅させろ!」と命令されている。だからこれでいいのだと無理矢理に納得してみる。けれど、好きな女性の前で格好よく振る舞いたいという男心が疼いてしまう。
(ユラシェお嬢様が熱い視線を送ってきたから……。もしかして、ボクのこと好きなのかも? なんて勘違いをして、転んでしまった)
会うことも話すことも叶わないと思っていた憧れのお嬢様が隣にいるのだ。アドレナリンは出っ放し。気分は酩酊状態。足元はふわふわと浮いているかのよう。つまり冷静な状態ではいられないほどに、リオンハールはユラシェお嬢様とのデートに浮かれている。
偽者ヨルンはふらふらと階段を上がると、三階に着き、そして固まった。
「特別観覧室一、二、三、四、五……」
特別観覧室が五つもある‼︎
どの部屋に入ればいいのか聞いていなかったリオンハールは青ざめる。すると、ホウキを持った掃除夫がつつーっとヨルンに近寄ってきて、囁いた。
「若造。一番の部屋じゃ」
「んっ⁉︎」
帽子を目深に被った掃除係。だが百四十五センチという小柄な身長と、顎から伸びる豊かな白髭と声がブランドンそっくり。
掃除係は親指を立てた。
ブランドンは(階段で転ぶ演技、見事じゃった。さすがは恋愛初心者。挙動不審点を一万点やろう)という意味合いで、親指を立てた。
だがリオンハールは(ユラシェのおじいちゃん! 掃除夫に変装して、助けに来てくれたんだね。ありがとう。親指を立てたのは、頑張れっていう応援だね!)と前向きに捉え、喜びに顔を輝かせる。
「ユラシェ、わかったよ! 一番の部屋だよ!」
「そうですね。いつも一番のお部屋ですものね」
ブランドンに励まされたと勘違いしたリオンハールは、勢いのままにユラシェの手首を掴んで特別観覧室一番へと走る。
「えっ⁉︎」
ヨルンのエスコートは常に紳士的で、手首を掴まれたこともなければ走ったこともない。ユラシェはびっくりしてしまう。
(手首を掴まれて一緒に走るなんて──まるで……まるで、黒髪の魔法使い様みたい……)
彼を思い出した途端、ユラシェの胸がトクンと跳ねる。
「走るなあっ‼︎」
特別観覧室一番の前に立っていたちょび髭の係員が、ヨルンの頭をすこーんっと叩いた。それからグッと顔を近づけて、変装グッズである牛乳瓶の底のような厚い眼鏡越しに、睨む。
「妹は心臓が弱いのだ! 走らせるんじゃない。磔の刑に処されたいのか!」
「スミマセン……」
ちょび髭の係員に扮したカリオスに叱られて、リオンハールはガックリと肩を落とす。
特別観覧室の上質なソファーに腰を下ろすと、偽者ヨルンはため息をついた。
「舞い上がってしまいました。すみません。胸は苦しくないですか?」
「はい。大丈夫です」
しょげているリオンハールと、暗い表情のユラシェ。
ユラシェは婚約者とデートしているのに、黒髪の魔法使いを思い出してしまった自分に落ち込んでしまう。
(今朝、ヨルン様を愛する努力をしなければと思った。けれど、どんなに努力してもどうにもならないことがあるのだわ。ヨルン様は優秀でお優しい方。嫌いなところなど一つもない。けれど、未来の夫として愛せそうにありません。ごめんなさい。私は、黒髪の魔法使い様に恋をしてしまったのです。──ヨルン様は細かいことにもよく気がつく方。私の気持ちが黒髪の魔法使い様にあることに、気づいていますよね?)
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