第9話 吐息を氷の結晶に閉じ込めたい

 雨に濡れている石畳を闊歩かっぽする馬のひずめの音と、カラカラと回る車輪の音が響くばかりで、馬車の中には沈黙が降りている。

 ユラシェは、ヨルンの様子をそっと窺う。


(どうしたのかしら? 難しい顔をして黙り込んだままだわ。いつもだったら、優しい笑顔で話題を提供してくださるのに……)


 ユラシェはおしゃべりな性格ではない。婚約者のヨルンといるときも、学友といるときも、聞き役。ユラシェは自分から話題を提供するよりも、相槌を打つ方が得意だとみんな知っている。

 だからヨルンが話して、ユラシェは微笑みながら相槌を打つ。それが定番となっているのに……。


(どうしてお話ししてくださらないのかしら? もしかして、怒っている?)


 眉間に皺を寄せて、難しい顔をしているヨルン。ユラシェはヨルンが怒っているとしたら、その原因は自分にあると思った。心当たりならある。けれどそのことを口にする勇気はなくて、遠回しに話を振ってみる。


「どうしたのですか? 体調がよろしくないのですか?」

「いいえ」

「では、なにか気がかりなことでもあるのですか?」


 偽者ヨルンはハッとした顔をすると、若草色の瞳を輝かせた。


「そうなのです! とんでもないことに気がついたのです‼︎」


 ユラシェは心臓が止まりそうになる。


(どうしよう! やっぱりヨルン様は、私の気持ちが他の人にあることに気づいているのだわ‼︎)


 ユラシェは顔面蒼白になり、うつむいた。

 リオンハールは腰のベルトに差していた魔法の杖を取り出して、振った。すると水色の光とともに、分厚い本が現れる。

 けれど、うつむいているユラシェは魔法の色を見ていない。


「魔法辞典です。調べてみます」

「お仕事ですか?」

「違います。個人的な関心事です」

「個人的な関心事? なんでしょう?」

「秘密です」


 ページを捲って、熱心に調べ物をするリオンハール。

 ユラシェは逃げ出したい気持ちに駆られて、馬車の窓から外を眺める。湿気で曇っている窓ガラスを伝う雨粒が、ユラシェの泣きたい思いを代弁しているかのよう。


(なにを調べているのか教えてくれないなんて……。相当怒っているのだわ。当然よね。他の男性といるところを見られてしまったのだもの。おまけにその後、ヨルン様の誘いを断り続けてしまった。一年が経ったとはいえ、関係が元に戻るわけない……)


 一年の昏睡状態から目覚めても、なにも変わっていないと思っていた。けれど、優しい婚約者だけが変わってしまった。けれど、変えてしまったのは自分のせいだ。

 ユラシェが込み上げる涙に耐えていると、偽者ヨルンはため息をついて分厚い辞典を閉じた。


「ダメでした。載っていません」

「そうですか……」

「ところで、呼吸が苦しくはないですか?」


 ヨルンの口からやっと、体調を気遣う言葉が聞けた。ユラシェは嬉しくなって、「はい、大丈夫です」と微笑む。

 近距離で放たれたユラシェの微笑みに、リオンハールの心臓が飛び跳ねる。

 偽者ヨルンは胸を押さえると、息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。


「ソ、ソレハ良かったデス。馬車の中という密室空間に二人でいるので、ユラシェお嬢様、じゃなくて、ユラシェと……」


 ぼふんっと、ヨルンの顔が熱くなる。

 憧れのユラシェお嬢様を呼び捨てにしないといけないことに、リオンハールは心の中で悲鳴をあげる。


(ギャーっ‼︎ ボクなんかが、生意気にすみません! 不敬罪に問われてもいいレベルだよ。あぁぁぁぁ、でも今のボクはヨルン王太子。気軽に名前を呼んでいい立場。むしろ気軽に呼んだ方がいいんだよね? どうしよう、嬉しすぎて昇天してしまいそう‼︎)


 心の中で悶絶する様が、ヨルンの表情に現れる。照れてみたり、青ざめてみたり、だらしなく頬を緩めたり──。

 一分の隙もないほどに爽やかなヨルンが初めて見せた百面相に、ユラシェの微笑が凍りつく。


「あの……本当にどうされたのですか? ご気分が優れないのですか? ヨルン様らしくありません」

「そ、そうですよね。すみません。脳神経回路が焦げついたようです。ゴホン。ええと、つまりですね。ユ、ユユ、ユラシェと同じ空気を吸っているという、とんでもないことに気づいたのです。なので、呼吸回数を減らす努力をしてみます。ユ、ユユ、ユラシェの呼吸が苦しくならないように」

「ごめんなさい。意味がわからないのですが……」

「ボクがたくさん空気を吸ってしまうと、馬車の中の空気が少なくなって、ユ、ユユ、ユラシェが呼吸をするのが苦しくなってしまうのではないかと……」


 ──なにを言っているの? 


 それがユラシェの率直な感想。

 けれど心臓発作で倒れたからこそ、呼吸が苦しくないか心配してくれているのだと察したユラシェは、ピンク色の薔薇がほころぶような笑顔を浮かべた。


「苦しくありません。大丈夫です。心配していただき、ありがとうございます。ヨルン様はやっぱり優しいですね」


 ズキューーンっ‼︎


 ユラシェの心のこもった笑顔の破壊力は大きい。恋のキューピットが(ユラシェをもっと好きになっちゃえよー! 我慢なんかするなよぉ。ヘイヘーイ‼︎)とばかりに、恋の矢をリオンハール目がけて打ちまくる。

 激しい恋の高鳴りに、ヨルンは上半身を折り曲げて喘いだ。


「く、くるしいぃぃぃ‼︎」

「ヨルン様! どうなさったのですか⁉︎」

「心臓がモタナイ……」

「なんてことでしょう! 今、馬車を止めますっ!」

「止めなくていいです。そういうことじゃないんです!」


 偽者ヨルンは両手で胸を押さえたまま、顔だけを上に向けてユラシェを見た。


「笑顔が尊すぎて、つらい!」

「え?」

「あぁーっ‼︎ なんで魔法辞典に載っていないんだっ! お嬢様の吐いた息が空間に漂っていることに気づいたんです。吐息を溶けることのない氷の結晶の中に閉じ込めて部屋に飾って、今日のデートを何度も思い出しては感傷に浸りたいのに。吐息を閉じ込める魔法がないなんてぇぇぇーーっ‼︎」


 カリオスなら「ユラシェの吐息を氷に閉じ込める? 君にしては、素晴らしいアイディアだ!」と絶賛するし、ブランドンなら「若造、わしにも一つおくれ!」そう頼むであろう、推しに対する尊い愛情行為。

 けれど常識人のユラシェはひゅっと喉奥を鳴らすと、スカートをギュッと握りしめた。


「吐息を部屋に飾られても、困ります……」


 ヨルン王太子は聡明で現実主義。吐息の成分を語ることはあっても、吐息を部屋に飾りたいなどと発言する人ではない。

 ユラシェは思った。


(ヨルン様が変! 仕事をしすぎて、おかしくなってしまったのかしら?)


 ユラシェは、気持ちが引いていくのを感じた。


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