第8話 初めてのエスコートはロボットのように
ユラシェが玄関ホールに姿を現すと、婚約者であるヨルン王太子が背筋を正した。
だがそれは、ヨルンに変身しているリオンハール。
偽者ヨルンに、ユラシェが微笑を投げる。美しい天使の微笑みに、リオンハールは用意していたセリフが消え失せて頭が真っ白になってしまった。
「あ、あ、ああ、ああ、今日は天気が良くて、デート日和ですね!」
「え?」
ユラシェは玄関ホールにある窓から、雨に濡れている屋外を眺める。
「すごくすごく、素敵なドレスです!」
「ありがとうございます」
「ドレスが素敵です!」
「ありがとうございます」
「ドレスがとても素敵です!」
「ありがとうございます……?」
ヨルンは何度、ドレスが素敵だと言えば気が済むのだろう。ユラシェは少し、幻滅してしまう。
(心臓発作を起こして、一年も眠っていたのよ。ドレスを気にかけるのではなく、体を気遣ってくれてもいいのに……。ヨルン様は私のこと、心配じゃなかったのかしら?)
ユラシェが生まれてすぐに、国王からメディリアス家に婚約の打診があったと聞く。父親は泣きながらも、王命だからと渋々婚約を受け入れたという。
ヨルンはユラシェより十歳上。年齢が離れているせいで、婚約者というよりは、細かいことにもよく気がつく頼りがいのある兄のよう。実際、次男カリオスとヨルンは同じ二十五歳。
ユラシェとヨルンは年齢差があるせいか、今まで一度も喧嘩をすることなく仲良く過ごしてきた。ヨルンは爽やかな外見と社交的な性格をしており、一緒に過ごす時間は楽しかった。
その気遣い上手のヨルンから、ドレスが素敵だという言葉しか出てこないのは寂しい。
カリオスに促されて、リオンハールとユラシェは外に出る。ユラシェが雨に濡れないよう、使用人が傘を差す。
本物ヨルンは通常、ユラシェの手をとって馬車の中へとエスコートする。だからユラシェは、エスコートを待っていた。
しかし女性慣れしていない、恋愛無知のリオンハールは、馬車の扉の前で「どうぞ」と緊張した面持ちで声をかけるのみ。
ユラシェは意味が飲み込めなくて、一年前の記憶より大人びた顔になっているヨルンを見つめる。
「あ、あの、どうしましたか? 雨に濡れてしまいますので、お先に乗ってください」
「あの、手を……」
──馬車のステップに足を乗せやすいよう、手を差し出してはくれないのですか?
そう言いたい。けれど女性の方からエスコートをねだるなんて、ひどくはしたないこと。
ユラシェは口を噤んだ。
リオンハールは口の中でモゴモゴと、「手を? 手を……手を……」と何度か繰り返したのち、ピンと閃いて顔を輝かせる。
「馬車の扉を押さえていますから、どうぞお乗りください!」
玄関先で事の成り行きを見張っていたユラシェの家族が、盛大なツッコミを入れる。
「王太子が扉を押さえるって変だろ!」
「そもそも風が吹いていないわい! 放っておいても扉は閉まらんぞ!」
「エスコートだ! 娘の手を取ってあげなさい!」
「ああっ! そうか‼︎」
もどかしくなったユラシェの父親が助け舟を出す。
ヨルン王太子に変身したリオンハールは、服でゴシゴシと手を拭くと、ユラシェに向かって右手を差し出す。
男性にしては滑らかなヨルンの手に、ユラシェの白く輝く華奢な指が置かれた途端──リオンハールの足からヘナヘナと力が抜けた。よろめき、馬車にゴツンっと頭をぶつけてしまう。
「ヨルン様! 大丈夫ですかっ⁉︎」
「ふぁい、大丈夫デス。多幸感に眩暈がしただけなのでぇ」
(ヨルン様が変。体調が優れないのかしら?)
身のこなしのスマートなヨルンのあられもない姿に、ユラシェの表情が凍りつく。
出来損ないのロボットのようにぎこちないリオンハールのエスコート。雨に濡れないよう、玄関先で見ていたメディリアス一家は全員渋い顔をした。
「あちゃー。あいつ全然ダメじゃん。見てられないよ。やっぱり僕らの手助けがないと」
「うむ。先が思いやられるのう」
「ソトニオ、お祖父様。一切の手出し無用。このデートの意味を理解していますね?」
長男のガシューが睨みつけると、祖父のブランドンは首をすくめ、三男のソトニオは唇を尖らせた。
「でもさ、これじゃユラシェが可哀想だよ!」
「それでいいのだ。一事が万事この調子では、必ずやユラシェは落胆する。泣いて帰ってくることだろう。そうしたら思う存分に慰めよう。婚約者などいらない。自分たちが一生ユラシェの面倒をみることを伝えて、とことん甘えさせてあげるのだ」
「そうだね。それがいい!」
単純な性格のソトニオは同意した。
ユラシェとリオンハールを乗せた馬車は、オペラ会場を目指して出発する。
見送りが終わった家族と使用人は屋敷の中に戻ったが、ブランドンとカリオスは玄関先で突っ立ったまま。
「どうした? 早く入らんかい」
「お祖父様こそ。雨に濡れると体に触りますよ」
「年寄り扱いするんじゃない! わしは独自に開発した、雨の日散歩健康法をもっておる。ちょいっと散歩してくるわい」
「奇遇ですね。私の健康法も、雨の日の散歩です」
ブランドンとカリオスは顔を見合わせると、ニヤリと共犯者の笑みを浮かべた。
「カリオスは、わしの遺伝子を色濃く受け継いだようだのう」
「そのようです。兄上は号泣するユラシェを慰める考えのようですが、ユラシェに涙を流させるわけにはいかない。ユラシェの体内水分を、無駄に外に出させるわけにはいかないのです‼︎」
「まったくもって同感じゃ! 可愛い孫娘の悲しみの涙など見たくないわい‼︎」
こうしてブランドンとカリオスは、二人の後をこっそりとつけることにした。
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