たった一人で泣いていた

大枝 岳志

たった一人で泣いていた

 32型の液晶パネルが映す平穏な暮らし。食卓を囲む家族の会話。学資保険とリスクマネジメントされた資産形成。快くすべてを受け入れてくれる隣人。優しさを欠かすことのない母親。暖かく理解のある父親。月に二回の家族ドライブ。見栄を抑えた新車のアウディ。スマートウォッチに委ねる心拍数。データ化された健康。朝に響くスムージーを作る音。

 そんなものが誰にでも、当たり前に手に入れられる世の中。

 隔たりもなく、貧富の差もなく、死ぬまで健康的に頭を活用し続けることが出来る生活。

 今、目の前にあるのはそんなものとは無縁の暮らし。 

 求めたのは方向性の違う豊かさ。

 彼女は折れたソファベッドでうたたねをしていたが、突然目を覚ましてこんな質問を僕に投げかける。


「ねぇ、コンビニのSが五十八円で納豆パック出すんだって。知ってた?」

「知らないし、納豆は食べないよ」

「そんなの分かってるよ。私が食べるんだよ。五十八円ってさぁ、すごく安くない? あーあ、もっと色んなものが安くなればいいのになぁ」

「あれ、そういえば今月ってガス代払ったっけ?」

「先月の分は今月の頭に払ったよ」

「あ、じゃあ新しい請求分はまだか。でも止められるの先だから後回しでいいか」

「どうしてもってものだけ、払える時に払っておけばいいよ」


 そうして、再び目を閉じる彼女。

 繰り返す季節と穏やかな午後。バルコニーとガーデニンググッズ。グルコサミンのコマーシャル。声だけでコントロール出来る最新家電。蓄電式の未来エネルギー。週末のキャンプ場特集に、ゴルフレッスン。座席を譲り合う老人達。定刻通りに到着する十両編成の列車の群れ。ロードバイクの先頭車両。おそろいのオーダーメイド服。受験票を握る子供達。百貨店のセレクト品。社会に貢献しながらの節税対策。余暇を楽しむ心の余力。誰かを責めず、誰にも責められない社会。翻訳機を手にした異文化交流。新しい風を否定しないコミュニティ。ドアノブにぶら下がるレジ袋と置手紙。壁に貼られる子供の描いた絵。水煙草を吐く十八時。肩を叩き合う若者と、背中を叩き合うサラリーマン。夕暮れに隠れる二匹の猫。伸びた日影を追い掛ける男の子と、女の子。

 キッチンの換気扇。「強」のボタンを押した二秒後に、彼女は「中」に切り替える。


「卵って二個あったよね?」

「あぁ、あるね」

「どうしよっかなぁ。チャーハンにしよっか」

「いいねぇ」


 豚肉はなかった。葱も買い忘れていた。それでも、チャーハンは出来上がる。皿に盛られたチャーハンは湯気を立てながら、美味そうな香りで鼻腔を刺激する。それを食べながら、ふぐ刺しを食レポをする芸能人に目を向けている。液晶画面の向こうで、箸がごっそりとふぐ刺しをかっさらう。


「一回でいいから、あれやってみたいな」


 水を飲んだ彼女がそう言う。


「ここは海がないからしばらく無理だね」

「連れてってよ」


 冗談めいた小さな願いの真意を図りかねている間に、彼女の話題は別のことに変わって行く。


 晴れた日の日曜大工。子供のわがまま。縄跳びが叩く地面の音。良好な診断結果。デイケアの送迎。今年の初物。大した話でもない号外。エンジンオイルの点検時期。画面越しの商談。スニーカーコレクション。健康を考え抜かれたアルコール飲料。紙のストロー。増え続ける御朱印帳。心からの接客。運行状況を管理するGPS。大人も喜ぶ動物園。プロジェクションマッピングによる視覚効果。積み立て可能な未来。地域の見守り活動。


「今のままで十分幸せだけどなぁ」


 液晶画面を眺めながら、彼女が首を傾げて呟いた。

 そんな日々を反芻しながら、誰もいない部屋でそうであれば良いと想像して、ひとりで「そうだね」と掠れた声を漏らしてみる。木霊にならない、笑い声。

 寒さに震える手で開けるさんまの缶詰。賞味期限が二週間前に切れていたカレー風味のアルファ米。カンパンと水。


「本日はこちらをお持ち帰り頂いて結構ですので」


 渡されたのは「備蓄用」と書かれた段ボール。いくつもの書面。紙の上だけで繋がる親族。ご確認の為、そして五秒で切られる電話。下げ慣れた頭。誓約書。宣誓書。様式。契約書。決してプラスに転ばない信用。三日に一度だけ開くメール。審査状況。不本意ながらという本意。無意識に漏らされ、積み上げられては腐って行く本音の山。怒鳴り散らす狂った老人と、淡々と書面を下げる役人。溜息を掃いて捨てる清掃員。ゆりかごの届出と、墓場の手続きは全て他人事。空に描いた絵空事。迷うことなく鳴る心臓。掛け捨てすら解約。レシートに埋もれた小銭が数枚。恥ずかしいことではありませんから、という恥のパイ投げのような衝撃。端から崩れる自尊心。金にもならなかったプライド。中古の魂。車椅子の使い方。右から左に裁かれる私生活。取り上げられる文化的生活。百円ショップの前で財布を覗く独居老人。

 誰にも届かない言葉。誰にも響かない心。誰にも靡かない魂。

 そして、いとも簡単に昼間へと掻き消されてしまうのは、いつも決まって見えないほどの小さな光。それは名前を変えた希望。綱渡りよりも細い足場。それでも何処かへと繋がっている、足場。

 踏み出した足の先に見えたのは道路の隅に積まれた落葉。北から吹く風に吹かれ、赤、茶、黄色が蝶のようにはばたいた。ひらひらと秋が降る中で、落葉は蝶となりはばたいている。

 その眩しさに、思わず強く目を閉じる。

 繋ぐ手のない午後。姿を消したまま、忘れ去られていた形見。枯れてしまった路傍の花。柔らかく笑い合った歓び。俯きながら、受け入れた日々。

 気が付けば泣いていた。

 あまりにも小さな陽射しを頬に感じながら、たった一人で泣いていた。

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たった一人で泣いていた 大枝 岳志 @ooedatakeshi

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