決戦(ティサ・ユージュ)9
「――――」
もし――、
もしも、の話をしようと思う。
この世界――美しくもその表層に覆い隠された、残酷が跋扈する、この救いようのない、大きな広い、果てのない世界において。
「――――――」
例えば、神様のような。
あるいは、神様でなくてもいい。
人間が――それ以外の生き物も、何もかも。善も悪も、魔法も、呪いも、それらを全て生み出した、その根源となる、何か、わけのわからない、いて欲しくもあり、いて欲しくもない、そんな存在が本当に、この世のどこかにいた――いる、とするならば――、
「――――――――――」
誰もがきっと、心の中で、その奥底では、信じたい。
そんな存在は、絶対的でなくてもいい――象徴的なものでなくてもいい――ただ。
悪意によってこの世界を作ったわけではないのだ、と。
ある日、全てを気まぐれに粉々にし、また無邪気な邪気でそれを作り直してみせるような。
そんな愚かしい存在では、せめてなく。
「――――――――――――――――――――」
苦しんで苦しんで、考えて考えて、悩んで悩んで――それでもそうせざるを得なくなったとしても。
それでも正しくあろうとするような。
正しくありたいと願うような。
そんな、こちら側の存在であってほしい――と、誰もがきっと、信じたい。
「――――――――――――――――――――――――――――――」
――俺は。
俺は、『運命』という言葉を信じていない――。
必然の積み重ねが、結果というものを形作る。運命とは、命を運に〝委ねる〟と続く、とてもつまらなくて面白みのない言葉なのだ――、それすらも運命というのなら、それはただの下らない、児戯にも等しい言葉遊び。
本質ではなく、それはただの偽物の外側の部分。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
そうあってほしい、と俺は、強く願う。
*
「……………………!」
全てが停止、停滞したかのような、灰色かと見紛うような、そんな寸刻みに映像が流れていくかのような、錯覚を、五感が当然のように受け入れて馴染んでいくその世界で。
怪物はその漆黒の目を見開き、〝それ〟を凝視する。
俺は――、俺も、〝それ〟を見て、思わずフッと息を漏らした――。
それ。
〝それ〟は宙を激しく回転しながら軽やかに舞う――怪物の発射した凶刃――鋭く尖った黒き指牙――などではそれは決してなく。
それとは似ても似つかない――そんな形状をした、その回転数のせいで完全な球体のように見えて弧を描く――、その、〝それ〟は。
(くさ、り……………………)
怪物の発射した指牙は、正確に俺の心臓へと向かってきて、それを打ち抜こうとして――しかし。
それは俺にとって致命傷とはなりえなかった――、なぜならば。
俺がこの日、胸ポケットに差し込んでいた、この鎖が。
ヤユを二度と死なせないよう常に身に着けていた、これが。
その指牙を、すんでのところで弾き飛ばして、しかしその威力の高さによって圧力で呼吸もままならない俺と、同じくはじき出され、宙を風切り音がしそうなほどにひしゃげて回転している鎖――、
(でも、よく、見える…………)
極限状態の最中だからか。
時間が引き伸ばされているのか――
されど鎖の回転はゆっくりと感じ取れて、その気になれば、指を伸ばせばそれをそのまま指にはめ込めるように、緩慢な動作をしているように感じ取れて。
(……………………)
この鎖はかつて、この森で――ヤユが川底をあさっていて見つけた、とある宗教――『レサニア教』の、少なくとも司教クラス以上が身に着けるであろう、銀製の精密な意匠が施された、そんな鎖である。
レサニア教徒は老若男女問わず鎖をその身に身に着ける。それは彼らの信じる神が、その死の間際に鎖を体にかけられていたことに由来する教義であり――
そして。
宗教は。
宗教は呪いにまつわり関わるもの――、呪い持ち、魔獣、魔物に対して、時に対抗する手段としてこの上ない力を持つことがある。
それは、目に見えない人間の思いの束のようなものが、呪いに対しての毒となるから。
「は…………………………」
だが。
この怪物は、強い。
途方もなく、強力で、破滅的な力を持っている。
例えレサニア教の司教クラス以上が身に着けるような銀製の鎖だとしても――、それを直視したところで、人間の状態だったヤユには有効だったとしても、怪物となっているこの怪物に、ほんの少しでも有効な衝撃を与える事は、出来ない。
叶わなかった――、
「………………仰せる果実の(バレエル)――」
「あ、は…………?」
しかし。
が、しかし。
あと、怪物の残存人数はたった一人分、その事実は、一切揺らいでいるわけではなく、戦いはまだ終わっていない――。
「……………………!」
――俺は。
俺は、鎖を空中で掴み取り、そして最後の、正真正銘最後に残った気力と体力と、残りのすべての霞ほどの魔力を、万力のような力を込めて鎖を握りしめつつ、それを唱えはじめる。
最強の呪言からは、ほど遠い。
俺が初めて、呪言を覚えて――最初に遣った、これは、そんな原初の最弱の魔法。
『偉大なる赤(エンセンドフュー)』と似た色彩を持つ、高い温度を持ったそれ――それを射出口のように、俺の腕の振りを補助するかのように、そんな位置取りに威力、方向を設定する。
「ははは、はははっはははははは………………‼」
怪物も、俺が何をしようとしているのか、同時に悟ったようだった。
当然だ、つい今しがた、自身が俺にやってのけてみた事なのだから。
俺はただ、怪物が先にしてきたことを、そのまま少し手を加えて口を加えてお返ししてやるだけ――、
このレサニア教の鎖を。
いかに強かろうが、いかに超越していようとも、それは魔物や魔獣、もしくは呪いの顕現たる相手においては、通常の矢や弾丸とは一線を画すであろう威力を内包すると思われる、この鈍色に輝く手のひらに収まるほどの小さな鎖を。
俺は。
怪物に向けて全身全霊で投擲する。
「うふ……………………………………………………」
瞬刻。
これまでに見た怪物の表情とは、更に一線を画す――、影が差したかのような、暗く暗く、嗜虐と恍惚にまみれた、そんな――そこはかとない、
微笑み。
嫌な予感が、寒気が、俺の魂を駆け巡って、そして、どこまでも深く淀んで、吹き溜まっていく。
(こ、の…………………………)
この怪物は。
最期の最期の、最後の最後の最後の最後まで。
底知れない。
そんな悪意の顕現―――、
「あ、ははは……………………………………っ」
怪物が、その場でズルズルと――足すらもはじけ飛んでいる、腕すらもほとんど原型が残っておらず、芋虫のように這っていたところが上体を起こすと同時に、ビリビリと水気を含んだ何かが破かれる音がして――、
俺は、怪物が何をしているのか、何をしようとしているのか、それを視覚から、あらゆる感覚から悟って愕然とする。
怪物が裂いたのは、己の皮膚と皮、筋線維の部分。それを上体を折り曲げて口で強く噛み圧し潰して一気に下から上へ起き上がると同時に破り切って――
そして。
そうして、現れたのは、怪物の密度の高い皮膚の下。
血と内臓――、
今度は『亡者の手』の時のような、莫大で膨大な数の様々な人間の内臓の融合体集合体などではそれはなく。
「…………………………!」
たった。
たった二つだけの、それもまったく似通った様相を呈する、深紅の宝石のように艶めく人体の最重要器官のそれ――すなわち。
(心、臓………………!)
心臓だった。
心臓、である。
そして心臓は人体に二つもない――、一人の人間につき、それは一つしかないわけで、そして怪物の表情、その快楽とも悦楽ともつかない興奮した様子、今にも叫びだしそうな風に震え出しているその様から鑑みて。
そして、あと〝ひとり〟と言っていたヤツの言葉から類推される、一見すると矛盾に見える、心臓が二つあるという、残存人数の齟齬かと疑ってしまうような、そんな事態から、しかし、それは嘘ではなく、この怪物がそれに関しては嘘をついていないという、一種の矜持のようなものから考えられるのは。
この心臓は、どちらかが怪物の、怪物本体の、怪物自身のもので――、そして。
もうひとつは。
もうひとつは。
ヤユ・ヒミサキの―――――!
「……………………‼」
そういうことか、怪物。
お前はここまできて、それでも最後まで、戦いを――こうやって、演出していくわけか。
それがお前の行動原理であり、至上目的、そういうわけなのか。
怪物。
「紅の(ヘイロ)―――」
――胸襟を開く、という言葉がある。
腹の底から胸を割って対話をする――、打ち明ける、と、そんな意味の言葉だが。
この怪物は文字通り胸筋を開いて――、そして、俺に選ばせる。
最期の、選択を迫りくる。
心臓は――二つ。
怪物の身体から露出するように、撃てるものなら撃ってみろと言わんばかりに、それは滑らかに鼓動を脈打っている。
怪物の残存人数は……一人。つまり、それがすなわち怪物自身であり、そしてヤユ・ヒミサキであり――仮にこの鎖による攻撃に俺が失敗して、例えば怪物ではなくヤユの心臓を撃ちぬいてしまったのならば。
残存人数ゼロ。
肉体の主導権は怪物になり、すべての自我は置き換わり、そして俺は完全敗北。あとは怪物が俺を難なく殺して食して、ジ・エンド。
旅は――終わりを告げて、彼女もこの世からいなくなる。
そうなってしまう、それだけの帰結。
「――――――」
俺は、もう呪言を言い放つ自身の口を、舌を止めることは出来ない。
それをしたところで、待っているのは死――もう一度呪言を放つ、放とうとする魔力すらも、もうすでにないこの状態。
そして、言い放ったところで、どちらにせよ魔力は枯渇――俺は、自身の意識を保つことも、もはや不可能だろう。
だから、放つしかない。
逃げの道はない、ただ前へと進む道しか、この場にはもう、舗装されていない。
そして天国への道は、舗装すらされていないのが常である。
いつだってそうだ、人間というのは。
人が、人である限り、前に進むしか、生きていくすべは残されていない。
「ままに(ネウェル)―――――――――」
選べ。
どちらかの心臓を、正解を、選んで見せろ。
掴み取って見せろ、凡百の呪言遣い。
どうあっても、どうなっても、これは運命なんかじゃない―――俺がこれまで歩んできた道のりの、必然の積み重ねの末に導き出された、たった一つの、答え。
それが俺のこれまでの人生を証明し、それがもしもあるならば、これからの人生を提示する、そんな究極の選択。
心臓は、二ヵ所。
上か、下か――――――どちらが怪物で、どちらがヤユ・ヒミサキか。
怪物のほうを撃ちぬいて――、この戦いに、終止符を打って見せるんだ。それだけしか。
俺に、出来る事は、ない。
「――――――――」
そして、放たれる矢のような鎖の軌道――
そうして極めて極めて最小の一呼吸の時間の隙間の中で、怪物が、また嗤った。
「ああ…………、たのし、い…………たの、しかっ、た……………………うふ、ふ…………」
――いっぱいころして。
――いっぱいたべて。
――いっぱいあそんで。
――いっぱいころしあって。
そんな己の業の軌跡が、すべては感情の赴くままに、欲望のあるがままに突き進んで弧を描いていって。
長い、永い、ながいながいながい、終わりなき日々を。
歩んで、歩んで、歩み続けた怪物と、それに旅の道連れのごとく付き合わされたヤユ・ヒミサキの。
――それこそが己の存在理由だと言わんばかりに、怪物はゾッとするような背筋の凍り付く妖艶な笑みを俺に向けて今一度浮かべる――。
そして俺は。
もう俺は、すでに自身の体を支える事も出来ず崩れ落ちていて、〝その瞬間〟をこの目でしかと見届けることはもう出来ない。
結果がどうなるかは、それすらも、次に目が覚めた時――そんな時がもし俺に訪れてくれたとしたのなら、だが、その時まではもう何も分からない。
生きるか死ぬか、いつだってそれだけだ。
「…………お楽しみはここまでだ、怪物――」
気の利いた言葉も、もう、もはや浮かばない。
ただ捨て台詞みたいに、そんな事を言って、俺の意識は遠く遠く、どこか海の底のような深いところへと際限なく沈み込んでいく――周囲の音も、光も、もうなにも聞き取れず感じ取れず、何が起きて、起ころうとしているのか、もう何も――何も、何も、何も、分かりはしない。
(ヤユ………………)
俺が。
俺が攻撃対象として選んだのは、上と下、二つある心臓のうちの―――
『――分からなければ、下を、選べ』
「―――――――――――――」
そして俺の意識はここではないどこかへと、暗幕が降りてくるかのように、静かに静かに――ゆっくりと、消失していった。
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