決戦(ティサ・ユージュ)7


 ここに来て、この森にやって来て、俺は本当にたくさんのことを話したし、そして彼女もまたそれは同じだったと思う。

 見聞きした。

 星の下で――、蛍の下で――、明かりに包まれて、ほんの少しだけヤユが語った、彼女の人生の、その小さな追憶。

 そして知った。

 ほんの数日前――、彼女が背負ったものをすべて吐き出した、怪物に魅入られるまでの人生と、怪物に魅入られてからの人生の、その始まりと終わりに至るまでの、あまりにも救いのなさすぎる、そんな物語を。

 そして昨夜――受け止めた。

 彼女が告白した、呪いの、その強まり続ける悪意と諦めの自戒の声。どれほどの勇気が必要だっただろうか、それを計り知れないほどの、慟哭とも言える独白。

 俺は。

 俺にできる事は、ただただ、そんな螺旋を描き死にうつろう、一人の少女のどこまでもあり続けるかと錯覚してしまうような、そんなどうしようもなかった理不尽を――

 理不尽に。

 立ち向かう事だけだ。


(こ、れは……………………)

「くつ、くつくつくつ…………くす……じゅう、ろく、にん…………」


 怪物が嗤う。俺はもう笑えない。

『死遊』によって動かされた魔獣と動物たちの死体人形が、俺の周りを距離を取って――しかし数歩で隙間を無くすことが出来る程度のゆとりを持って、取り囲んでいく。

 挟撃、どころではない。

 四面楚歌どころではない。

 もはやここから先、俺がここを突破していくのは至難を超えた不可能の領域――それだけではなかった。

 怪物が、朽ち倒れた大木の上で、己の体をぐじゅぐじゅと掻きむしっている。

 そして見るに堪えないその赤黒い崩された肉塊から――、次々と、次々と実体を伴って――が。

 生身の人間が、老若男女関係なくどこからどう見てもただの人間にしか見えない人間が、まるで粘土細工のようなオブジェじみた様相から、一呼吸をつくほどの短い間隔に置いて、

 その人間たちはまるで生きているかのように。

 しかし不気味に、この世のものとは思えない形相で笑っている。

 怪物はこちらに直接仕掛けてはこない。ただまるで痒いから掻くのだとでも言わんげに、ぐつぐつと肉を落とし続け、その肉からは人間――人間らしきものたちが生まれ続け、怪物は高みの見物――ネコがネズミをいたぶるように――そんな様子でこちらを睥睨する。

 やはり、この戦いを、この怪物は遊びか何かだと思っている。

「う、ふ…………」

 怪物の人数カウントが止まった、『死遊』と、そしてこの新たに生み出した人間を使役する――もしかしてこの人間たちは。今まで怪物が喰らってきた、その人間たちをベースにして生み出されているのか。

 ヤユがいつか話していた、故郷での友人たち、家族、大切な人たち。

 そしてヤユが村を出て、それから出会った、そして犠牲となってしまった無辜の人々。

 そしてヤユを討伐すべくかつて動いた、賞金首狩り、王国軍、武芸者らのような特徴を備えもつ――そんな者たちが、この人間たちの中には散見されている。


(怪、物………………)


 死してなお。

 殺してなお。

 こいつは、こいつは、こいつは、こいつは――――

 身を焦がすような怒りが俺の脳内を真っ黒に埋め尽くそうとする。が、それとは別のところで俺のもっとも大切な部分が、それを押しとどめようとする。

 それでも俺は最大攻撃――血を口元から滴らせながら、この超長時間詠唱を必要とする文字列を唱え続ける。

 唱え続け、その時が来るまで必ず生き残ることを――強く、強く己の魂に誓う。


 広範囲領域を完全に漆黒の膜で覆い、その内部においては本体たる怪物の気配も、発する音も、何もかもを反響させ曖昧にさせる『暗黒』と、

 己が殺した生物をその場で自在に動かせる死体人形に作り変える『死遊』と、

 かつて食した死者を自身の体から物理的に再現して意のままに動かす――使役する、あらゆる尊厳をいとも容易く蹂躙するだろう『死役』。


『暗黒』『死遊』『死役』――そして超膂力と残存人数に依存する、決して死なない、どんな外傷を負おうとも、必ず万全の状態で復活を遂げる事が出来る超回復――、これが。

 これらの力がこの怪物の手札、俺がこれからなお、相対するもの。

 相対して、打ち倒さなくてはならないもの。

 左

、右、右、右

下、左

上、上

 そして最初に攻撃を仕掛けてきたのは魔獣――俺はそれらをかわし、されど怪物からは一度たりとも目線を切らない。

 怪物に動きはない。

 動くつもりはないように見える。

(ふざけ、やがって…………)

 追いつめられていく。

 右上、

下、

下、

左上、

 今度は怪物が『死役』によって生み出した生身の人間たちが、魔獣や動物たちとはまた違った、人間独自の立ち回りと挙動を持って、俺にその青白い手を、何本もの生気のない手を伸ばして押さえつけようとしてくる。

(この、呪言の詠唱中は…………!)

 他の言葉を、他の呪言を挟むことはできない。ただ一呼吸、一息の間隙を置いただけで、呪言は霧散し、同時にそれは俺の勝ちの目が完全に消滅することを意味する。

 左上、右下、

右下、

左上

 死してなお死を消費させる――、この世のあらゆる不条理を煮詰めたような、そんな信じがたい魔術。

 この絶対の、死の階段を途切れさせることが出来たものは、これまでに一人もいなかった。

(ぐ、がは…………)

 血反吐が、

 傷口が大きく開いてしまったのだろう、片腕から泡のように噴き出す鮮血が、地面に大きな斑点を作って、俺の足元を流れて後方に消えていった。

 その時、一瞬――、ほんの一瞬だけ垣間見たのは、あまりにも遠くて、懐かしくて、暖かくて、どこか嘘だったかのような――俺の故郷での、俺の、一番大切だった人たちとの、なんてことはない、日常の記憶。

 幼きころ過ごした、ありがちな町でのありがちな日々。

 どれだけ良かったことだろう、あんな毎日がずっと続けば、俺はそれだけで――、それだけで、きっと報われていた。

 でも、それがある日終わりを迎えた、魔獣や魔物じゃない、同じ人間たちの手によって終わりを迎えた、そんな、そんな――いつまでもまぶたの裏にこびりついて離れない、苦しみの記憶に塗りつぶされていって、そんな――。

 そして月日を経て、憎悪に纏わりつかれて挑んだ――、そして叩き潰された、屈辱の、あの、あの日の、あの国での、また全てを失った日のこと。

 そしてそれから旅を始めて、俺は、俺は、俺は――多くの、また、それまでの俺には考えられなかったくらいの、たくさんの人たちに出会って。

 色んなことを知って、色んなことを見て聞いて触れて、そうして、また、渡り歩いて。

 ――少しは、強くなれただろうか。

 ――少しは手が、届いただろうか。

 今の俺に、今の俺だからこそ、出来ることは―――本当に、本当に、あるのだろうか、そんなものは。



『お兄さん!』



 ヤユ……。

 走馬灯。

 死を前にして死の直前を垣間見る――そんな追憶の果て、つい先日、会ったばかりの少女が俺の前で振り向いて、そう呼んで、笑いかけてきた――そんな、気がした。

 ヤユの人生は、俺と少しだけ似ている。

 ただ大きく違うのは、まだ、まだ彼女は、何も見て聞いて触れて、知っていない事だ――世界の広さを。

 世界がどれだけ途方もなくて、そして時折楽しくて、きっとどれだけ一人の人間が歩いて行っても、そのすべてを味わい尽くすには、とてもとても――とても足りないほど、美しいものだということを。

 ヤユの人生は、まだ始まってすらいない。

 こんなところで――、

 

 上、

右下、    左

、右上、右

 俺は現実へと回帰する。

『死遊』によって本来の膂力からかけ離れているだろう強化をされた魔獣と森の動物たちの死体人形が猛攻を――その降り続く雨のような、かすればそれは身体を柔らかな果物のようにかじり取るだろう、そんな攻撃のひとつひとつを、俺は、時に首の皮一枚ほど受けながら、辛うじて、辛うじて回避していく。

 左、右上、

下、下、 左

『死役』によって生み出された、かつて怪物が喰らったのであろう、そんな人々の残留思念が実体化したような――そんな怖気が走るような代物たちは、予想もつかないような動き、人の可動域ゆえに成立する動きと、そしてより精度の高い連携をもって、俺を掴もうと、千切ろうと、縊ろうと、削り取ろうと、抑え込もうと、ありとあらゆる死へと繋がる挙動を繰り返し、徐々に――どころではない、一足飛びに〝詰み〟への道路を舗装していく。

 上、右

、左、   下

、右上、右

上、      下

 残された時間は、もう少ない……。

 体力の、気力の限界を迎え、俺の足が止まりそのまま圧し潰されるのが先か――、

 俺の、今この瞬間も唱え続けている、最大にして最後の一手、この呪言が成立しこの世界に顕現し怪物にそれをぶつけ放すのが先か――、寸分。

 もはや遣い手である俺にも判断できない、そんなこれまでになく密度の高まった、引き伸ばされて停滞した時間の中においても、指の先どころか爪の先ほどの差において明暗が分かれる、それほどの極限で継続されて行く戦闘。

 耐える戦いであり、待ち続ける戦い。

 それは最初、それこそ無限に思えたほど長い、長い、悠久のものだった――が。

「あは、あははっはあ………………」

「事なき首輪、止められた手錠、打ち据えられた羊(ロエオルト・キルコーナ・ヴィザロナンテ)――」

「あはえ「あは、は……「うふ……ふふふ「はは、ふ「くつ…………「ふ、は…………

「ハハハハハハはハハハハハハっハハハハハっハハハハハはっはははははあっははふはハハッハハハハハっはははっははっははははっはははははっははははははっはははははははっはあはあはあっははははっはあああはははははっははははははははははははあはひひひはははははくつつくくくっくくくははははっひひひははははっはあああううううぁははははきききききはははあはあはははっはあああああああああ「あああふふふふふふひゃひゃはひゃははひゃははひゃああああああけけけけけうぎぎははははははっはははははははははははっはははははっはははははっはははははっははははっはっはあっははははっはははははっははははっははははっははははっはあはっ」

「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」

 左

、上

、右下、

左下、右

『死遊』『死役』によって生み出された――怪物の眷属となってしまった魔獣の、動物らの、人々の、示し合せたかのような天を突き抜けるかのような笑い声が重なっていく、耳を塞ぎたくなるほどの異音、奇音、秩序なき嬌声。

「うずもれた蝋燭、遠雷と古城、薄汚れた円卓、食み果ての災い、紫煙の渦(グナラング・スライトボナ・シラオクレ・アポナボーテ・フロウリルフ)――」

「ふ、あは………………」

 そして。

 怪物が動く。

 これまで微動だにせず、ただその不気味な悪意を顔に張り付けていただけの、黒い塊が――ゆっくりと。

 それはさながら、まるで。

 ずっと――ずっとこの時を待ち焦がれていたかのような。

 そんな、吐き気がするほどに人間くさい、軽やかな仕草に、刹那俺は垣間見える。

「…………………………――――――」

 完成。

 あとは、俺の喉から発されるたった一言だ。

 その一言を唱えるだけで、全ての答えは出て、この戦いは――その結末を、ただ無機質に無慈悲に提示する。

 それだけの、話。

 血が、擦過傷が、内臓へまで達しているどこかで受けてしまった傷が、左腕の付け根から今なおとめどなく流れ落ちる深紅の体液が、俺からありとあらゆるものを喪失させていく、そんな錯覚を、感覚を、俺は静かにまぶたを――、きわめて短い時間閉じて、振り払う。

 そして今一度怪物に狙いを定めて――そして残った片腕、右腕をヤツに向けて――そして。

(………………………………!)

 気付けば。

 ――つい一瞬前まで俺を取り囲んでいた魔獣も、動物らも、使役された人間たちも、みな、みな、最初からこの場にいなかったかのように気配なく、完全に消失していた。

 跡形もない。

 今この場所――森の奥深く、目が困惑を起こすような緑一色のこの場所で。

 今ここに確かに立っているのは俺と――、

「ふ、ふ……………………ふ」

 この、怪物たった一体。

 一騎打ちの、構図。

 俺は。

 かまわず右腕をヤツに標準を合わせたまま、そしてその一言を唱えようとする。

 そして――、

 怪物も。

 怪物の、怪物のその身体が、胴体が、頭部が、まるで両断されたかのようにパックリと、割けて、裂けていって――、半分に、今にも分離しそうなくらい、真ん中から二つに分かれそうなくらい、ぺりぺりと千切れていったのは刹那の同時だった。

 そして。

 その怪物の体内から噴き出してきたのは鮮血――真っ赤な血などでは決してなく。

(こ、んな………………)

 だ。

 怪物一体分の内臓――ですらない。

 とてつもない、明らかに怪物の体内に収まる質量を優に上回り凌駕しているだろう、規格外の、想定などとてもできないほどの、数えきれないほどの内臓が――、

 肝臓、胃、すい臓、小腸、大腸、直腸、脾臓、さらには心臓――

 肝臓、胃、すい臓、小腸、大腸、直腸、脾臓、またしても心臓――

 ありとあらゆる人体の重要器官、その部位が、とめどなく、とてつもなく、膨大な質量を持って、なおそれを増やし続けて噴き出してくる。

 噴き出してくる。

「……………………あ、」

 その内臓たちは互いに絡み合い、身を寄せ合い、混ざり合い――そして、そしてみるみるうちにその実態を、その様相を、全体像を俺の眼前に形作り、それがなんなのか、考えるまでもなくすぐに理解できるほどの、分かりやすさを伴って――

「あはは、は………………………………」

 だ。

 内臓たちが形を成したのは、それはまるで人間の手のような形をした――巨大な手、そのものだった。そんな代物が、怪物の体内から湧き出して、そしてそれは俺の方へと向いて――


『亡者の手』


 そんなフレーズが俺の脳裏をよぎったのと、その手――『亡者の手』が俺へと凄まじい速度で迫ってきたのはまさに同瞬だった。

『暗黒』『死遊』『死役』

 そしておそらくこれが怪物の最後にして最大の魔術――『亡者の手』……

 この技を発動させるために、『死遊』『死役』を怪物は解除せざるを得なかった――そういうことだろうか。

 ならばそれほどの。

 それほどの、それほどの力をこの怪物が俺に向けてくる意味は――、

「………………」

『亡者の手』が。

 その生々しい内臓を敷き詰めて、そして溶接して融合したかのような、そんなあまりにも凄まじい外面をした巨大な手が、俺の方へと信じられない速度で差し迫ってくる。

 力と力のぶつかり合い。

 己のすべてを賭けた、最大攻撃と最大攻撃。

 俺は。

 俺はその一言を、ようやく、ようやく、本当にようやく言い放つ――。

 それは、あらゆるものを、なぎ倒して、この下らない、あまりにも死線を繰り返した戦い――死闘に区切りをつける、たった一息で終わる、終わらせる、そんな意思を持った一言だ。


「………………会えば終わり(フュラノーラ)」


 瞬間、世界そのものが明滅して揺れて――





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