決戦(ティサ・ユージュ)3
――呪いというものは。
本当に多種多様、摩訶理解不可能で理屈を置き去りにした、とてつもなく底知れない膨大な悪意そのもの、その吹き溜まり、発露の果ての力の奔流のようなものだ。
その呪いにかかった『呪い持ち』の人間は魔法を遣えなくなるのと同様――、
呪いそのもので体が出来ているといって差し支えない魔獣や魔物もまた、如何なる手段を用いても魔法を扱うことは出来はしないわけで、それならば、強大な魔法の力を呪言として遣える通常の人間が、それに対処するのはさして困難なことではない、と、本来ならば短絡的に結論をつけてしまうかも知れない。
しかし、残念ながらそうはならないのは――、
魔物、魔獣……また一部の『呪い持ち』も、魔法とは別方向であれど、呪いという根源を前提とした、奇怪なる『魔術』を扱うことが、より上位の存在になればなるほどに散見されるから、に他ならない。
例えばかつて世界は三度人類滅亡の危機に瀕した――、
1000年前に一度目は『英雄 ラログリッド・ユラバルデ』率いる勇者たちに対峙する『魔王イフラリス』。
500年前二度めは天面戦役における世界各地での魔獣の発生出現――そしてその根源となった『竜』の存在が巻き起こした甚大なる戦禍。
270年前三度めは大戦における人類と魔物の全面戦争。『辺幽の魔女 セレオルタ』『膨王グドメイルッジ』『盲魔 ジェンデルド・エフォバンダー』『不遠の魔女 フォルナサ・タクトビナ』……ただその存在ひとつが世界そのものを滅ぼしかねないほどの力を持つ魔物が、気まぐれのように起こした人類存亡の危機。
魔物、魔獣、魔物……
人類の歴史とはすなわち、そうやって紡がれてきた、編纂されてきた、彼らとの戦争の歴史そのものといってもいい。
それが成立したのは魔物や魔獣が決して無力な存在ではなく――時に彼らの一部が遣う理屈不明の現象――それはいつからか魔術と呼ばれたが、その力はまさに、魔法と対をなすに相応しい、絶大なものだから、に他ならない。
例えば。
ヤユの呪い『万死の呪い』による効果――、あらゆる外傷も、一度死んだら完全に元通りになる、という規格外の修繕能力も、呪い、その延長線上の魔術に分類される副産物だろう。
それならば当然、その本懐、呪いの正体本体たるこの怪物も、死んだらリセット……あらゆる傷が無効化して元通りになってしまっても、それに不思議はない。
絶対に死なない呪い。
切ろうが、叩こうが、潰そうが、ねじろうが、焼こうが、煮ようが、沈めようが、凍らせようが。
何をしたとしても。
決して終わらせることは出来ない、不死身の――永遠の代弁者たる呪い。
それはもはや、もう……無敵だ。
俺に倒せるはずがなく、俺の手に負える相手ではない。
全てを諦めるしかなくなるほどの、力。
(怪物を、怪物のままに殺すこと……は、正解じゃなかった……?)
絶望が、真の絶望が俺の胸をじわじわと浸食しようとしている。
ヤユの『万死の呪い』を解呪する方法が、もしもこれならば――という淡い希望。自身を鼓舞するために張った虚勢すらも今や空しく、俺がこれから取れる手段は、それこそ犬のように逃げて、そしてヤユを助ける道を諦める……もう、それしかなくなってしまう。
呪いの本質を見極める時間はもうない。
完全なる詰みだ。
そう思って、全快を遂げた怪物から後ずさりしながら、こみ上げる吐き気をこらえている時だった――
「ふた、り……………………」
「⁉」
怪物がおもむろに、心底楽しそうに――表情はぼんやりとしているが、その口元を異常に歪めて、これまでに聞いた声とはまた異質の、跳ね上がるような子供のような無邪気な声質で、その言葉を言い放ったのは。
(しゃ、べ…………)
この怪物が、意味のある、人間の言葉を初めて喋った。
俺にはそう聞こえた。
ふた、り……、
ふた、り、
ふたり。
二人。
二人……人数、か。
どういう、どういう意味だ――
「ぐ、………………⁉」
その意味を考える前に、怪物がはや、動きだす――、
特に助走をつけているわけではない、その場で足に万力のような負荷をかけて、地面をえぐり取るように跳躍、一足飛びに俺の命を刈り取れるだろう、〝死の距離〟へと跳躍してくる
「塞がれた不知の亡国(コガクトス・フラインデイン)」は未だ有効。
ここから俺がすべきことは、なんとか距離を取って立て直す――、今一度、怪物を攻略する方法を冷静に冷徹に一刻も早く探し当てる事――、
(今の、ふたり……という言葉の意味……!)
ただの無意味な言葉の羅列ではない、直感だがそんな気がする。
こうやって俺が戦闘の中で思考を張り巡らせる事はいわばデフォルトの状態であり、怪物が俺の動揺や、そうやって意識を割かせることで油断を誘うような、そんな効果を狙っているとしたら外れもいいところなわけで――しかしながら、先ほど怪物が見せた意識の間隙を縫うような移動を見る限り、その程度のことを怪物が本能的であれ理性的であれ、感じ取れないということは、今の一言がブラフだということは、まあ考えにくい。
(考えろ、考えるんだ…………!)
思えば、映像記憶。
最初のオープニング・ヒットにおいて俺が先了詠唱により渾身の一撃を与えた時も、何か、無反応ではなく先ほどのように一言、口を動かしていたような――、そんな、そんな気が……、
「く…………!」
怪物が、大腕を振るってくる。動きの軌跡を、俺はこれから寸分なく読まなくてはならない。読んで、躱して、身を翻して、距離を持って立て直す。しかしこの暴風のような死線を前に、それは果たして――
(避け、きれ…………‼)
左、上、右下、右、左、上、右、左下――
あらゆる方向からの殴打をかわす。
そして俺がわずかに距離を取る。それは俺八人分程度の非常に拙い距離感――
しかしながら怪物が〝飛び道具〟を使用するには十分な、それほどの空白――
「…………‼」
怪物がその場、その地面にその大きな手を差し込んで、土を掬い上げるのが垣間見えた。俺は地形を活かそうと木の陰に身を委ねようとしていたところ――だったそのタイミングで、怪物は上半身を不自然に起こすような、そんな奇妙な体勢をしてからの、そして遠心力を存分なく発揮するかのごとく、その無数の砂粒が含まれた土くれを、俺の方へ向かって恐るべき速度で投擲した――
(俺を上空に吹っ飛ばして、そして大岩の次はこれか…………!)
つくづく物を投げる事が好きな怪物だ。
そんな余裕を湛えた台詞を、もちろん俺が吐き捨てる余裕はなく、大木の陰に己の背中を預けて一瞬その死の弾丸が通り過ぎるのを待とうとしたが――
ぞくり、と。
嫌な予感が脳裏をかすめるのと、呪言の詠唱はほとんど同時だった。
「されど忘我への門は開く(ログベリ・ファガトニラ)」
水の壁だ。
俺の背後に出現したのは純粋な水で形成された、四角形の厚み渦巻く、水の障壁――詠唱時間が足りなかったゆえに即席のものしか出来なかったが。
「………………‼」
そこに、怪物が放った砂粒の弾丸が、これでもかと当然のように木々を貫通し、まったく勢いを留めることはなく、凄まじい威力で突き刺さって、水の壁の内部へと侵入してくる。
そしてそれは水の抵抗力によって徐々に徐々に減衰していき――やがて完全に停止した。
ものもあれば。
「ッ…………!」
わずか俺に届いた一部の弾丸もある。
「円卓に至る証なき道(レフォ・ミューロ)」五枚掛けによって防御を強化していたとはいえ、それは運動エネルギーその働きや方向性を無効化するものでは当然なく、それらたった一部の弾丸を受けた俺の体はふわりと宙に浮くように――そして列車のような加速で前方へと吹き飛ばされてしまう。
「あは、あははははは…………」
当然、その一見無防備に見える時間を見逃す怪物ではない。そんな俺に並走するかのように――いつの間にか、怪物が俺に急接近していて、そして。
(おい、嘘だろ…………このタイミングでそんなもの食らったら…………!)
拳と拳をつなぎ合わせて、まるでハンマーのように、俺に振り下ろそうとしてくる怪物。
対して俺は。
「整えられた醜悪(キサティス)」
それは悪手だ、怪物。
怪物自体にではない、怪物の足元に、土を集めて高低差を作る。奥は深く、手前は盛り上げて。必然怪物はそれに引っかかって――、
「間抜け」
横転した。その勢いそのままに顔面から地面に倒れ伏し、そして俺は自身の体勢を、呪言を遣わずに受け身をとって立て直す。
さきほどの大岩の時は、疾走中まだ怪物が攻撃のモーションに入っていなかったから、この呪言を遣っても容易に避けられることが想定できたわけだが、今回は、かなり腕力をこめていたのだろう、そして俺が一見反撃できる姿勢ではなかったように見えたのだろう、隙だらけだ。
呪言遣いを殺したかったら、その口を塞ぐしかない。
それが出来ないなら、こうなる。
立ち上がる寸前の怪物へと、俺は今日で二番目の、比較的時間的ゆとりを持って形作られた――、攻撃魔法を披露する。
それは舞い上げられた砂塵を集めて集めて――土を、泥を掻き集めて掻き集めて――、一見して球体の、膜のような――
「ぐ、がが…………?」
怪物を囲うように、円を作る。シールドを張る。そしてすべての方向から回避不可能の――そして凝縮して濃縮して収縮された――
「とりあえず、点の攻撃は通るは通るんだろ、怪物」
針のむしろ。シールドの中から怪物の全身へと突き刺すような攻撃が、怪物の剛毛を、そして皮膚を貫通して、そしてその動きを完全に止めたように――シールドの外からの俺には目視できないが、そう確信した。
(どうなる………………)
俺は攻撃を終えても、それを解除はしていない。針のむしろは突き刺したままだ。
この状態ならば、実質拘束をしている状態に等しいので、怪物が回復をして飛び掛かってきても、それがどれだけ疾かろうと、十分に対処できる。
直後のことだった。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおうううううおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
「な……………………‼」
とてつもない、吠え声。
俺がこれまでの人生において聞いたことのない、それまでの音という音の常識を覆すような、大音量のそれが、俺の鼓膜を、三半規管を、嫌というほどに揺さぶる。
(そう、きたか…………!)
「円卓に至る証なき道(レフォ・ミューロ)」を発動していなければ。鼓膜は間違いなく破かれていた。
特に、この怪物との戦闘において、それは命取りになるということは、これまでのあらゆるやり取りの中で確認するまでもなく自明の理だ。
「………………?」
しかし、それだけだ。
吠え声が一つあったあとは、特に何の変化もなく、俺の目の前には砂上のシールドが張り巡らされたままで、それは一切傷ついてはおらず、まさかこれで拘束成功なんてことは――
と思った。
その刹那である。
ぼ、ご…………と。
俺の足の下、地面の下から異音がしたかと思うと。
そこから怪物の腕がにゅるりと顔を――いや、腕なので顔ではないが、とにかく腕を出して俺の足首を掴み、そしてそのまま俺を地面へと叩きつけた。
「ぐ、あ………………‼」
そういうことか。
さっきのふざけた大声は俺の鼓膜を攻撃するためのものでも、ましてや怒りの咆哮というわけでもない。
あくまで、クレバーに、クールに。
あのシールドの中の地面を一瞬で掘り進んで俺の足元まで至る――その時に生じる轟音を、かき消すための、そんな不協和音だったわけだ。
「ご、にん……………………」
「引き出しの、多いやつだ……………………」
にっちゃりと。そして怪物が今度は本当に自身の顔を地面から出し、そして這いずり出てくる。
当然のごとく、外傷はない。
俺の攻撃は間違いなく怪物の体を貫通していたわけだから、ということは怪物は恐らく一度死んで、また先ほどのように完全復活を果たしたわけで――
「あははあは」
怪物が笑う。寸分待たず、こちらの方に歩き迫ってくる。
(考えろ、考えろ…………)
叩きつけられたことによるダメージは……一瞬、呼吸が止まってしまった程度のことだ。当然呪言遣いにとって呼吸が出来ないということは喋れないということ――それはすなわち終わりへと直結する事情であるが、今回は怪物も万全の体勢からの攻撃ではなかった。ゆえに、俺に致命的な外傷を与える事はなく、そうなると、怪物があえてわざと俺を挑発するためにそういったふざけた攻撃手段を取ってきたように思えてきて、そういう思考回路に至ってしまうということはつまり、精神的にも俺が徐々にこいつに追い詰められてきている……という、その証左に他ならない。
(考えろ……)
ご、にん。
五人だ。
間違いなく、先ほど怪物が発した言葉は意味を持ったもので、そして前後の関連性から考えるまでもなく、やはりそれは人数……人の数を指していることに疑いはない。
右下、右、
上、左、右上、下、
左、左――
怪物の猛攻、それを避けながら加速する思考。
そして。
戦いの冒頭、俺がヤツに先了詠唱による「破かれど砕けぬ線上の塵(アクレクト・ヴェラオーラ)」を叩きこんだ時――怪物が確かに動かしていた口元で言っていた台詞。
『なな、にん………………』
七人。これも人数だ。
人の数……そしてその変遷。ななにん、ふたり、ごにん。
七、二、五。
人数は増えているわけではない……かといっても減っていってもいない。規則性はあるのか、ないのか。
下、
右、左下、右上、
左、
右、右、上
どういった意味を持つ……、その言葉は怪物個体内で完結しているものなのか、あるいは俺の行動が怪物に影響を与えて、それを人数として言葉にして発しているのか……、もしくは怪物も呪言のように、特定の文字列を放つことによって何らかの効果を得ている? それとも、やはり意味のあるように含みを持たせた、ただの俺の動きを鈍らせるための戦術に過ぎない?
「ははははっはははああ」
他に考えられるのは……、他には……そもそも。
この謎を解き明かすことが、そもそもこの怪物攻略のカギとなるのか。
全てが砂上の楼閣――、一寸先は闇。
何の保証もなく、誰も耳元で懇切丁寧に親切に真相を語ってくれたりはしない。誰も、手を差し伸べてくれはしない――今この小さな世界で。
俺の生死すらも。
すべては闇の中に閉ざされている――、と。
そう思った矢先だった。
「! こ、れは………………‼」
突如として世界の色が変わる。
暗く、暗く、黒く、黒く………………今のキュロイナは燦燦と照りつける陽光が、森を優しく照らしている、そんな時間帯にも関わらず。
俺の視界を暗幕で覆うように。
暗黒がすべてを塗りつぶすように、一帯を情け容赦なく支配していく――。
『暗黒』
比喩ではない、例えではない、そのままだ。
視覚的に、物理的に、黒々としたカーテンが俺の背後を通り過ぎ、そしてそれは際限なくどこまでもどこまでも拡がって拡散していき――
少なくとも俺の目には、それが無限に続いているような。
ただ黒しかない、そんな世界――そんな場所に俺は閉じ込められる。
「………………‼」
一瞬前までは森の中の深緑の世界にいたのに。
今は何もない、ただ虚無だけが支配する、漆黒の空間に、俺はいる。
暗き黒。
暗き、黒の中に。
「じゅ…………、じゅういち、にん…………」
くすくすと。
くつりくつり、と。
心底楽し気な、この世のありとあらゆるものを初めて目にして手に取って触れて、口の中に含んでみたかのような。
そんな赤ん坊のような、今はただ怖気が走る笑い声がどこからともなく響いてくる――
響いてくる。
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