20話 「け、た……」

 ――俺は、ヤユに、嘘をついた。

 俺は『世界最強』には勝てないし、なれない。

 かつて――どれだけ苦しんでも、どれだけ足掻いても、どれだけ血反吐を吐こうと、それでもあの、『世界最強』には届かなかった。この世界の『絶対』相手に敵う事はおろか、かすり傷1つ、付ける事は出来なかった。

 ゆえに、全てを失った。

「…………」

 しかし、それでも――俺ならば。

『世界で一番強い人間』に食い下がる程度のことは出来るはずだ。

 もしかしたら、あるいは、一矢報いる程度のことは出来るかもしれない。長い旅路の果て、その程度の強さには辛うじて到達できた、そんな確信が、俺の中には今、密かに芽生えている。

 だから俺は、ヤユを不安がらせないように、少し見栄を張って嘘を吐いてみせた、それだけの話。

 ひとりぼっちの少女の為に、誰よりも強く憎む者を演じる――こんな面白おかしい冒険譚が、他にあるなら見せてみろ。


「ヤユ……」

「うん、お兄さん」


 ――そうして俺たちは、外でを待つ。

 この深い森の最奥……何が起きても、これからどんな途方もないことが起ころうと、この場所以外の安全は可能な限り保証されるだろう、そんなキュロイナの最深部。ヤユの舘からさらにさらに遠く離れた、そんな袋小路の帯域。

 太陽が出て、ちょうど空の最も高いところに居座った、今はそんな時刻だ。

 空は忌々しいくらいに晴れて、森は憎々しいくらいな長閑さを見せつけてくれる。

「わたし、お兄さんなら信じられる……お兄さん、お兄さんなら、きっと、あの、恐ろしい怪物を倒せるって、今は、そう思ってるから――だから……」

「ああ」

「助けて」

「任せろ」

 ――そう。にっこりと、しかし苦し気に呼吸を荒げながらヤユが言う。

 徐々に、徐々に、粘着質に。

 少女の顔は、彼女の本質からもっとも乖離しているだろう、そんな邪悪さと悪意を湛えたものへと変貌をみせていく。

「…………」

 昨夜……いや夜もおおよそを回っていたから最早今夜、か。そこからまだ半日も経過していないはず……恐るべき速さで怪物はヤユの体を覆いつくそうとしているらしい、その事に間違いはないようだった。

 怪物化――どれほどのものか。この目で見るのは初めてのことになる。呪いは、その強さに際限もなければ再現性もない、そんな不確かなものだ。

 だが、ここまできて弱気なことを言う俺ではなかった。ただ、弱気なことを考えつつ――行動においては最善を尽くす、それが俺という人間、そのはずだ。

「け、た……」

「……?」

「けた、けた、けた、け……た……」


 ――直後のことだった。

 この世のものとは思えない、まるで地の底から……いや、そんな陳腐な表現では表せないような、禍々しく、そして、吐き気をもよおすような、そんな笑い声が、どこからか響いてくる。

「…………」

 ――いや。

 どこからかじゃない、目の前からだ。俺の目の前にいる、この小さな少女が、放った嬌声のような、苦悶のような、あるいはそのどちらも兼ね揃えたかのような、不気味さという概念を、ありとあらゆる所から集めて凝縮して煮詰めたような、そんな……そんな、神経を逆なでし、背筋を骨ごとぞわりとしゃぶりつくされるような、そんな声。

 そんな耳を舐られるかのような低い声が、距離感すらもおかしくなるような、不規則さ乱雑さをともなって、この空間一体に響き渡る。

鳴り、響き渡り始める。


「くつ、くつ、くつ、くつ、く、つ……」

「………………」

「くつ、くつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつ、くつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつ、くつくつくつくつくつくつくつ。くつくつくつくつくつくつくつつくつくつくつ、くつくつくつくつ

くつく

くつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつ、くつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつく、つくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつく、つくつくつくつくつくつくつくつ、くつくつく。つくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつく

くつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつく、つくつくつくつくつくつくつくつくつくつ。くつくつくつ

くつくつくつくつくつくつくつくつくつくつ、くつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつく、つくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつく、つくつくくつくつくつくつ、

くつくつくつく、つくつつくつく、つくつくつくつくつくつくつくつ、くつくつく。

くつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつく、つくつくつくつくつくつくつくつくつくつ。くつくつくつくつくつくつくつくつ、くつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつく

くつくつくつく、つくつつくつく、つくつくつくつくつくつくつくつ、くつくつく。つくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつく

くつくつくつくつくつく

くつくつくつくつくつくつくつくつくつくつく、つくつくつくつくつくつくつくつくつくつ。くつくつくつくつくつくつくつくつ

くつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつ、くつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつく、つくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつく、つくつくつくつくつくつくつくつ、くつくつく。つくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつく

くつくつくつくつくつ

くつくつくつくつくつくつくつく、つくつくつくつくつくつくつくつくつくつ。くつくつくつ

くつくつくつくつくつくつくつくつくつくつ、くつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつく、つくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつくつく、つくつくくつくつ」


「…………ははっ」

 釣られて俺も吐き捨てるように笑みをこぼす。

 もちろん虚勢がたっぷりに塗りつけられた、ついでに生クリームでも一緒に塗ってみるか? と言いたくなるような、そんな笑い方だ。

「――」

 そして、そうして、時は満ち足りる。

 少女の――ヤユ・ヒミサキの体に前触れなく。そして、それは押し広げられるように広がり、広がり――破かれて。

 子供のいたずらのように、紙のように皮膚はビリビリに引き裂かれて。

 その、破かれた内部――彼女の真っ赤な内臓をこれでもかと収納した体内から、まるで膨張……内臓などどうでも良いとでも主張するかのように、肉が、無数の質量を持つ肉が無限に増大していくような、そんな勢いを伴って、でろでろとはみ出してくる。

 その肉は最初柔らかく見えたが、みるみるうちに硬質化――少なくとも、俺の目には岩や金属よりも硬度を保っているように見える。そんな代物が、いつの間にかヤユ本体の体を覆って――覆っていて、それはとどまる気配はない。

 生きているかのような、赤い肉と白い肉のコントラスト。

 そして、肉はいつの間にか、鋼のような真っ黒な体毛に覆われていく。

 肉塊の大きさは、俺が首を三角角度に見上げて、ちょうど顔と顔――目と目。と言っていいのかわからないが、その怪物の頭部らしき部分を直視できる、そのくらいのサイズ。

 背の高さは俺五人分、横幅は三人分、と言ったところか……以前森の中で遭遇したオオカミのような魔獣と比べて、単純なサイズ感だけならば覆しようのない差はない――そんな気はするが。


「…………」

「…………ふふ、うふふ……」


 その迫力は、比肩するものではない。

 怪物は、そのあるべき本来の姿に戻ったのだろう、肉のしなりは止まり、静かな息遣いがこの空間をこだまし、支配している。

 肉はすでに肉ではなく、凶悪な生物の形態をとっている。

 四足歩行……人間型ではない、動物型の動きをするらしい。

 この世のどの動物とも例えようもない、ただ、両手両足には異様に伸びた流線型の剛爪を携えて、それを先端に付ける筋肉は肥大し、不自然なほどに盛り上がっている。

 その相貌は、鬼か悪魔か魔女か、それとももっと別の、望まれない何かか。

 人の様でもあるし、獣の様でもある。どこを向いているのか分からない小さな白い目が一つと、漆黒の瞳孔が笑う、こちらを見下ろす目が二つ。

 ただただゆらめく長く尖った両の耳。

 口は横に開かれ開かれて、顔を真横に切断したかのように、いびつな広がり方をしている。

 鼻らしきものは確認できない。顔もまた、鋼の体毛に覆われれていて、その全体像はどこかぼんやりとぼやけていてひどく曖昧だ。

 しかし。

 人間離れした姿をしているくせに、その笑い方はさながら人間の女が笑っているかのよう。そのふざけた表情だけは、なぜかこちらに嫌というほどにジンジンと伝わってきた。


「…………ふ、あははあ……」

「…………お前が、怪物か。ヤユを飽き果てる程に苦しめた、飽くなき悪意――」


 ――怪物が、一歩前に出て、距離を詰めてきた。

 俺は――俺も、同様に下がることなく、まずは一歩、怪物に向かって歩を進める。

 オープニング・ヒット。

 その余裕をたたえた面構えに、俺が最短で最速で、まずは全身全霊の一撃をお見舞い――目の覚める一発を食らわせてやるつもりだった。

 準備となる『先了詠唱(クリットラーダ)』はすでに完了し、今この場には、魔礎がすでにゆらぎたわみ、それが現実に顕現する、その一瞬をただ無機質に待っている。

 これ以上の攻撃は、先了詠唱では発動できない。戦闘中に呪言を練っていく必要がある。ともあれ、俺の精神は、頭脳は、すでにその時を待ち構え、心臓は加速し、ありとあらゆる呪言の文字列が、俺の脳裏を縦横無尽に駆け巡り始めていたが。

 ――ともかく、回帰だ。まずは、この怪物にも、分からせてやる事から、始めなければならない。

 自分が何をしでかしたのか。

 そして誰を敵に回したのかを。


「……ふ、くつ、くつくつくつ……」

「…………」


 ――怪物が進む。

 ――俺も詰める。

 俺は、ただ一言――最初の呪言を唱える前に、宣戦布告とまだ見ぬ勝利宣言の意も込めて、その台詞を言う事にした。

 縁起を担いでいるわけでも、キザったらしく気取っているわけでもない。

 ただ、ヤユ・ヒミサキという少女の長い長い不条理に彩られたその人生を、そのすべてを担っていたこの怪物に対しての、それは決別の言葉なのか。

 あるいは、ヤユ・ヒミサキに対しての、もしくは俺自身に対しての、それは決意であり誓いであり、願いの表れゆえに、発してしまった、そんな台詞なのか。

 どんな感情が渦巻いて、そうなったのかは見当も付かない――ただ、これだけは言いたくなった、言わなければいけない、と、そう心の底から思ってしまった。

 それは、この戦いの火蓋を切って落とす、そんな明快な、とてもわかりやすい、飾り気ないたった一言――


「終わらないお伽話を、終わらせよう」


 俺は笑う。怪物も嗤った。

 最後の戦いが、今始まる。







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