18話 「……えへへ、ごめんね、お兄さん……変なところ、見せちゃったね……」


「……えへへ、ごめんね、お兄さん……変なところ、見せちゃったね……」

「……いや……」

「も、もっと……離れたところで静かにやればよかった、かなあ……起こしちゃった……」

「…………」


 疑問が、俺の頭の中をもたげ、通り過ぎていく。

 ヤユは、なぜ、どうして、さっき

 彼女の呪い『万死の呪い』……その呪いの効果は、一日一度は死なないと、怪物になってしまうというものだ。

 たしか昨日の朝――、いや昼に差し掛かっていたかもしれない。ヤユは起きてからすぐに一度断頭台で死んでいたはずだから――まだあと半日程度は死ななくてもどうということはないはずだ。

 それなのに、なぜ? なんのために?

 たとえば連続的に死ぬことにより、死ななくていい時間がストックされる……なんて話は俺は聞いたことがない。

 ならば……どうして、わざわざそんな事を。

「――――」

 その問いを俺が発するべきかどうか迷っているうちに、ぽつり、とその答えを語りだしたのはヤユの方からだった。

「だ、断頭台を使ったら……お兄さんに、バレちゃうかも、って思ったんだ……ほら、あれ、けっこう大きい音がするから、さ……」

「…………」

 ヤユは、ぽつり、ぽつりとそれを語りだす。

 観念したような、諦めたような、そんな雰囲気。

「えっと……例えばだけどね。首つりで死んじゃうと……、わたし、自分で降りられなくなるから……ロープの方がボロボロになって朽ちるまで、わたし、ずっと死に続けなくちゃならなくなるんだ。お兄さんが来る前に一回それやっちゃって、それで、すごく大変でね……それで、断頭台を、作ることになったんだけど……ほら、あの断頭台も、普通のとはちょっと違ってて、首をかけるところが少し高いところにあって下のスペースが空いてるでしょ? あれは首と体が分かれて私が倒れても、台に邪魔されずにちゃんと元通りにくっついていけるように……と、とにかく……え、えっと、なんていえばいいのかな。さっきの、ナイフで死んでたのは音も小さいし、ちょっと苦しいけど、一番かくじつに死んじゃえる、方法だからで……」

「………………」

「お兄さんが来た後はね、わたし……わたし、その、バレたくない、って思ってたんだ……この、こうやって……夜に、わたしがもう一回、死んでること……だ、だから……」

「…………」


「呪いがね、どんどん強くなってるんだ」


 ――ヤユは。

 ヤユは意を決したように、こちらの目を見つめて、そう言った。

 それは無表情――などではなく、あらゆる感情が同居して、その上に仮面を無理やりに被せたかのような、そんな、今にも泣き出しそうな――

「……最初は、数年間に一回だけ、死んじゃえば、それでよかったの」

「…………」

 ヤユは言葉を続ける。俺は彼女の言わんとしていること、その言葉の本質を、意味を、まだ完全には受け止め切れてはいない。

 理屈ではなく心が理解することを嫌がっている。

 それでもヤユは、言葉を止める事はしない。続きは不条理さを伴って紡がれていく。

「……その、怪物になりそうになる日が近づくとね……頭がすごく痛くなったり、心臓がバクンバクン、っていってね……暴れだすの。だから、分かる……このまま死ななかったら、わたしは怪物になっちゃう、って……それでも、最初は死ぬことがすごく怖くて、それに、その前は自分が死ぬことが怪物化を止める方法だなんて、最初は全然気づかなかった……だから、わたし、たくさんの人に……ひどい、ことをしちゃった、取り返しのつかないことを……」

「…………」

「……それでもね。自分が死ぬだけで、他の人が死ななくなるんなら……それで、十分だって思って……なんとか、死ねるようになった。えへへ、最初は色んな死に方を、試してみたなあ……でも、変な骨が折れちゃって、身体が動かなくなった時はすごく焦ったよ……だって、村の近くで、もう少しで怪物になっちゃいそうだったから。でも……その時は、怪物になる前に、餓死……が出来て、よかった……あれは、危なかった、っけなあ……」

「…………」

 己の感情を誤魔化すかのようなヤユの言いぶり。

 俺はただ彼女の言葉のすべてに耳を傾ける事しかできない。

 それだけしか、できなかった。

「……それでね。でも……いつからかな。けっこう長いことそれで大丈夫だったんだけど……でも、いつの間にか、それがゆっくりとね、短くなっていったんだ」

「…………」

「短く……最初は、数年に一回くらいでよかったのに……いつか、それが一年に一回くらいになっちゃってたんだ。一年に一回死なないと、怪物になっちゃう体に……」

「………………」

「……それでもね。あんまり変わらなかったよ。そりゃ、死ぬ回数は少ない方がいいに決まってるけど……でも、もう、慣れてきてたから。死ぬことが、そんなに難しく感じなくなってたから……わたしは、だいじょうぶ。自分は、だいじょうぶ。って……そう、いっつも、寝る前に、言い聞かせてた……」

「…………」

「それで、ね。でも、またしばらく時間が経って……今度は数か月に一回……ってなってたんだ。数か月に一回死なないと、怪物になっちゃう体に、わたしはなっちゃってた……」


 ふふふ、とヤユは笑う。

 振り絞るように、精いっぱいの虚勢を、虚実を、俺に向けて。なにかを伝えたい、しかしそれを絶対に伝えまいとしているかのような、そんな苦しげな顔。

「……おかしいよね。自分の呪いなのに、ぜんぜんわたしにはこの呪いのことが分からなかった……どうやっても、止められなかった。それでも、だんだん、だんだん、少しずつ、短くなっていくんだ。……」

「…………」

「……それがね。ずっと、ずっと続いてたんだ。数か月のあとは、数週間に一度……それが過ぎると今度は数日に一度。それで、今は一日一度……じゃないか。もっと短いよね。半日に一度……それも、また短くなってきてるんだ。死ななきゃならない回数が増えるごとに、呪いの勢いとか強さみたいなものも、すごく増していってるみたい……」

「…………」

「死なないと、わたしは怪物になっちゃう。死ぬことだけが、怪物にならないための、自分を止めるためのただ一つの方法だったんだよ。そしたら、わたしは元通りになって……この、呪いにかかっちゃった時の姿のまま。ずっと……わたしは、わたしでいられるんだ……」

「…………」

「でも……」

 ――そう言って、ヤユは静かに目線を落とす。

 それは全てを諦めて、全てをただ為すがままに受け入れようとしている、あらゆるものを見ないとしているかのような、そんな仕草だった。

 手を伸ばせば、そこにいるのに、触れられるほどに近いのに、あまりにも、遠く。

「もう……遅いんだ、お兄さん……」

「…………」

「わたしは、あと少しでたぶん、本当の、本物の、正真正銘の怪物になっちゃうんだと思う。人間に戻れなくなる……寝ても起きても、人を殺して、それを食べても……目につくものすべてを壊しても、それがなんてことでもないように……なにがあっても、この、今の姿のわたしにさえ、戻れなくなって……それで、それで……そうやって、ずっと生き続ける。そんな、呪いそのもの……呪いに食べられちゃった、そういう存在に、なるんだよ、きっと……」

「…………」

「…………ごめんね、お兄さん……」

「…………?」

「……わたし、怖くて……もう人間には戻れなくなるのかも知れない。それが、明日なんじゃないかって……ずっと、ずっと、ずっと、ずっと……怖くて、怖くて、怖くて、仕方がなかったんだ……」

「…………」

「……お兄さんが家に初めて来た時、もちろん最初は警戒してたよ。また『死にたがる人』なんじゃないかって……でも違った。お兄さんは『死にたがらない人』だった……それに、いい人だった。それでわたし……もう、誰かと話すこともなく、一人で怪物になっちゃう、と思ってたから……最期に、お兄さんが、こんなところに来てくれて、嬉しくて……、こんなに長いあいだ、こんなわたしに付き合ってくれてありがと。ごめんね……」

「…………」

「それに、隠してて、ごめん……どうしてかは分からないけど、お兄さんにはこのこと、最後まで知られたくなかったんだ……」

「…………」

「……でも、あとちょっとしたら、怪物になることは言わなくても、お別れは……ちゃんと言うつもりだった。あと少しで、わたしはもう、完全な怪物になる……だから、その前に……人間のまま、こんなちっこい姿だけど、それでも人間のまま、お兄さんに、ちゃんとお別れを、言いたくて……え、えへへ……い、色々、その時のおくりものとかも考えちゃったりして……」

「……………………」

「…………お兄さん」

 ヤユは、再び顔を上げる。

 そして彼女は――今までに見たどの表情よりも、満面の――心の底から浮かべたかのような、そう見紛うほどの、明るい笑顔で、その言葉を俺に告げる。

 それは少しだけ早い、永遠の別れの挨拶だった。

「もう、行った方がいいよ。呪いの終わり……いや、始まりかな、が近づいてきてる。お兄さんも、ここにいたら死んじゃう……だからね……」

「…………」

「さよなら、楽しかった」

「…………」

「ありがとう、じゃ言い切れないくらい……ありがとう、お兄さん」

「…………」


 ――この世界が絶対的な静寂に包まれたかのような錯覚。

 無理やり笑ってそう言うヤユ。対して俺は……俺は、自分が今どんな顔をしているのか、自分では見当も付かなかった。

 ただ、俺の体の中を駆け巡っている感情の正体を、それが言語化できるかどうかは果たして分からないが、ひたすらに探っていた。

「…………」

 ヤユは。

 俺がただの好奇心からこの森を訪れたあの日まで……いや、俺がこの森を訪れたあの日からも。

 ずっと、ずっと、たった一人で孤独に戦っていたのだ。

 途方もない時間を。

 悠久の苦しみを。


 ……自分の身体がもはや自分からは遠ざかっていくその戦慄。

 ……怪物に侵され自我を浸食されていく例えようもない恐怖。

 ……日々繰り返される己で己を殺すという煉獄のような苦行。

 ……呪いによって奪ってしまった数々のもう戻ってこない命。


 自分自身を責め続け、死にたくても死にきれることはなく、苦しんで、苦しんで、苦しんで。

 そんな過去の延長線上にヤユは自身の小さな体躯を置いて、そうやって生きてきた。

 生きてきたのだ。

 それは、どれほどの、どれほど凄まじい日々だったことだろう。

 俺にはそれは――ただ想像してやる事しか出来ないし、想像したところできっと、彼女の傍らに寄り添うことすら叶わない、きっとそれだけの、途方もないことなのだ。

 哀しいほどに、遠い。

「…………」

 俺に、何か出来る事はないのか……?

 そんな自問自答が、罪悪感のようなものが、胸を駆け巡り、脳の中でグチャグチャになって、そして脳髄にしみ込んで、どこかへと消えていった。

「お兄さん、わたし、これからね……」

「…………」

 そんな俺を見ながら、ヤユはまるで大したことないとでも言うように、当たり前のような態度で、無理やり笑って言葉を続ける。

 今度は笑っているのに、泣いているかのような、そんな表情で。

「自分を、どこかに閉じ込めようと思う……できるかどうか、分からないけど……わたしが、怪物になっちゃっても、もう、どこにも出られない……みんな、大丈夫なように……えへへ、そんな方法、あるといいんだけどなあ……」

「…………」

「お兄さん――」

「ヤユ」

 ――俺は。

 そうして俺は、彼女の言葉を遮るように、その、たった一言を口にする。

 目をつむり、そして開き、言い放つ。

 覚悟じゃない。勇気でもない。

 憐憫でもない。同情でもない。

 諦観でもない、正義でも悪でも何でもない。

 ただの、率直極まりない気持ち。

 ただ、そうヤユにたった一つ、言うだけの事が、俺が彼女にしてやれる、最大の、最大で最低の、最も度し難く形でさえあやふやな、思考の最果てに導き出した、正解かどうかさえも分からない答えだった。


「俺が怪物を倒してやる」





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