終章 早すぎた終わり(クオ・トラス・ノーラ)

17話 「あ」


 魔法が人の手の中にあり、人を守るものならば。

 呪いは人の傍らに立ち、人を蔑むものである。


 この世界が始まった時から、この世界は呪いに溢れ満ち満ちている。

 それはほとんどの場合。

 残酷で。

 醜悪で。

 理不尽で。

 冷徹で。

 凄絶で。

 狂的で。

 悪意にまみれ。

 まったく救いようのない。

 まったく報われることはない、そんな終わりをもたらす。


 いつだって、始まりというのは突然にやってきて、終わりというのは、ある日ふとした瞬間に訪れる。

 それが大切なものであろうと、そうでなかろうと、関係はなく。

 それはただ、この世の摂理だとでも言いたげに、ただ理不尽に強引に奪われて、後にはどこにも跡形もなく、それは最初からこの世に存在してなかったのだと主張するかのように、霧散していくだけなのだ。

 それが、この世界。

 

 ………………。

 今回だって。

 それが、ただ、いつもと変わらないように見えた、でも実は決定的に違っていた、今日という日に過ぎなかっただけのこと。

 これは、それだけの話だった。


 それだけの、話だ。







 ……月が、円を描いていた。

 真球かと見まがうほどに丸く、不気味なほどに黄色いそれは、俺のまぶたをぼんやりとゆるやかな光で照らし、俺はゆっくりと目を開ける。

 俺がこんな時間に覚醒してしまうのは、あまりないこと……珍しいことだ。なにか、胸騒ぎのようなものがしたから目を覚ましたのか、それとも月明かりのせいなのか、それはどちらなのか判然とはしなかった。

「…………」

 俺は。

 なんとなく、夜風に当たるために階下に降りる。そして…………

「…………?」

 その、外に繋がるドアが、ほんの少しだけ、よく見ないと分からないくらいに、ほんの少しだけ開いているのに気が付いた。

「……ヤユ……?」

 返答はない。家の中に彼女の気配はない。もしかして、外に出ているのだろうか……

 そう思い、ドアをゆっくりと開ける。なぜか俺はこのとき、初めてこの森……この舘にやってきて、そして初めてヤユに遭遇し、同時に彼女の肉体が呪いによって修復していくさま……それを目撃したときと同じように、そろそろと気配を押し殺し、まるで己の存在感を何倍にも希釈させるかのような仕草で外に出ていた。

 外はひやりと夜の森特有の冷気と……生き物は息をひそめ、身を縮こまらせて眠りについているかのような、そんな静かさに包まれている。

 すると。


「………………?」


 ……ぶし、と。

 完全な静寂が一瞬だけ訪れたかのような錯覚を覚えた時だった。

 それは背後からだ。

 その音は背後から――舘の裏手、断頭台のある広場の横……特に何もないはずのこじんまりとした庭のあたりからそれは聞こえてきた。

 俺は我に返り、一歩、また一歩とその音のでどころに近づいていく。

「…………」

 その間も……ぶし、……ぶし、とその音は鳴りやむことはなく……むしろそんな何の音かよく分からない音に混じってぴちゃぴちゃと、犬猫が器に満たされた水を舐めるような……あるいは雨どいから水がしたたり落ちるような。

 そんなものが増えては混ざってくる。

「……おい、何をやってるんだ……?」

 そして。

 そうして。

 俺は見たのだった。

 ヤユ。

 ヤユ・ヒミサキ――彼女がその片手に持っている、赤色にまみれた鋼鉄の切っ先。

 使い古されたであろう、刃物――

 錆びてぼろぼろになっているそれを、ヤユは、恐らくすでに何度も何度も自分の首に突き立てていたのだろう、ボタボタと音を立てながらしたたり落ちる、深紅の水滴。

 傷口は開き、とめどなく。

 ひゅー……ひゅー……と喉元からは風のような音が聞こえ、あぶくが弾けるような、ごぼごぼという滑稽なほどの異音も申し訳程度に響いてくる。

 少女は、今まさに自殺していた。

 それも、断頭台を使ったものではない――不器用に、あまり慣れていない様子で、小さなナイフを使い、己の首をかっ開き、どうにかこうにかもがこうとするような、そんな見るも痛々しい死にざまであり死に方――

「あ」

 ヤユが俺に気づいたと同時、ヤユは俺の目の前で落命――体中の力はふらりと抜けて、前のめりに倒れ込むようにその場に崩れ落ちる。

 倒れ際、ゴキリ、と折れるような軋むような胸糞の悪い音がした――首の骨が折れてしまったのかもしれない。

「………………」

 そして。

 ここにきて何度かは見たその光景――、

 覆水盆に返らず、という言葉があるが。この呪いの前においては、たとえ地面の土や今まさに服にしみ込んでいた血液の一滴一滴すらも、少女の体に可逆していく。

 血液が玉のように群体になり、まるで虫の大群が這っていくかのようにヤユの体に近づいて、それは首の切り傷から彼女の体内に侵入し、そして今度は傷口がまるで肉そのものが生きているかのような動きをし始めて――

 ヤユは、生き返った。


 息を吹き返した。


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