序章 遅すぎた始まり(ワグ・シエス・リーラ)

1話 「ふ、う…………」


 ……ふと気が付くと、かなりの長時間酒場に滞在してしまっていた。

 おかげで気力体力ともに回復してきた事だし、もういい加減、歩き出してもいい時間帯だろう。

 俺は暑くも寒くもない今の季節なら、夜道のほうが好きだった。

 そちらの方が――本来なら見えないものを、より目ざとく、見つけられる気がする。

「…………」

 おもむろに、テーブルに銅貨を二枚置いて立ち上がる。店主に声をかけて席を離れようとした。

「……?」

 すると、喧噪と笑い声に混じって少しだけ異質な会話がされているのが聞こえてくる……。


 *


 むかしむかし、あるところに一人ぼっちの少女が居ました。

 その少女は死にませんでした。

 死んでも、死んでも、死んでも、死んでも、死に切れませんでした。

 殺されても、殺されても、殺されても、殺されても、決して、決して殺され切れませんでした。


 少女は、怪物でした。

 怪物は人を食べます。それはそれは美味しそうにむしゃむしゃと食べます。

 少女が食い散らかした後には、いつも、骨ひとつ残ることはなく、生きているものは形すらなくなってしまいます。


 それでも、領主様は勇敢でした。

 どれだけの苦しみを少女から与えられようと、知と勇をもって怪物に立ち向かい続けました。

 しかし、それでも少女を死にません。終わらせることは出来ません。


 それから腕に自信のある勇者や武芸者も森に赴きましたが、これもまた、ただの一人として敵う事はなく、少女を終わらせることは出来ませんでした。


 無辜の人々の死。

 それを大層悲しんだ領主様は、やがて自らの身を挺すことを選びます。

 領主様は、少女を森に、そのすべての力を使って永遠に封印することにしました。

 少女は正しい魔法の力により、たとえ倒せなくても、殺せなくても、終わらせられなくても、森から出る事だけは叶いません。

 それからも時々、森の奥からうなり声が聞こえてきましたが、それ以来、人々は怪物の力に苦しめられることはなくなり、領地には平和な時間が戻りました。


 森の奥でずっと死に続けている少女……億死の女王。

 少女は今も、暗い森の中でさまよっています。人間たちへの恨みを、その身にしんしんと、しんしんと募らせながら……。



「……とまあ、こんな感じの話だなー」

「……はん、死に続ける少女……ねえ。そんなの聞くと、ぜひ確かめたくなるねえ……」

「森は禁足地だけどなー」

「…………」


 ――暇つぶしの童話寓話。

 酒の肴に選んでみたというような、そんな根も葉もない荒唐無稽な話。

 ざわざわ、ざわりざわりと。

 面白そうじゃねえか森に入って肝試しといくかァ、やめとけ魔物や魔獣に食い殺されんのがオチだ、おおーんやんのかァ、やらねえよチンコロガシ、などと夜に向かって未だ喧騒を強めつつある酒場を、俺はゆっくり歩いて後にする。

「……恐らくは」

 ――昔からの作り話、寓話やお伽話というものには大概何らかの教訓や意図が含まれているものだ。

 例えば、さっきの『死に続ける少女』の話なら、この地の領主を必要以上に持ち上げる目的……

 領主の賢明さを民に広める事によって、人心を掌握し、地域引いては国家と言うものを恒久的に運営していくための基盤を形成していく……

 あるいは、怪物、という恐怖の象徴をことさら取り上げる事によって、それに対する人々の連帯感を作り出し、真の非常事態……他国から仕掛けられる戦争、不慮の災害などに備えさせる……そういった危機管理的な無意識を持たせるなんて意図も、あるいは物語の作成者にはあるのかもしれない。

「………………」

 そして、もしくは――、

 森がざわめき、重苦しくホウホウとフクロウが鳴いている。

「嘘でもなんでもなく、ただ事実をありのままに語り継いだだけ……という場合か」

 好奇心は人を活かす。

 気づいたら、俺は森の入り口に足を運んでいた。

 夜はすっかり深くなり、底冷えた空気があたりを重く覆っている……

「確かに、最近人が踏み入った形跡はないな」

 あたりには民家も、人の気配もまったくない文明からひたすらに孤立した自然の檻……森の入口とはいっても獣道すらなく、鬱蒼と背の高い草が侵入者を拒むように秩序なく生い茂っているだけで。


(『死に続ける少女』……)


 正直なところ、さっきの酒場で聞こえた彼らの話が真実かそうでないかは、俺にとってどうでもよかった。

 大切なのは知りたいと思う気持ち、知ろうとする意思だ。

 興味を持ったならすぐに行動する。俺がまだこうして呼吸をして動いて生きているということは、それで恐らくは間違ってはいないということ。

「…………」

 ……さて。


「――仰せる果実の紅のままに(バレエル・ヘイロネウェル)」


 口に出して『それ』を唱える。

 魔法。

 言霊が世界に満ちる魔礎に干渉し、それが現実に顕現。俺の指の先にランプ程度の明かりが灯り、闇が少しばかりゆらめき照らされる。

「……いくか」

 魔法を己の意思で遣い行使できるものを、人はいつからか呪言遣のろことづかいと呼ぶようになった。

 ザくザくザくと。

 俺は暗い森に向かって足を踏み出す。

 落ち葉と枯れ枝の敷き詰められた、道なき道をまっすぐに歩き進める。

 ――この先にある結末を知らないからこそ、俺は無造作に進んでいく。

 森は静かだった。

 不自然なくらい、やけに静かだった。

 俺を歓迎も拒絶もしないように、ただそこに在るがままに在るだけだ。



「ここは……」

 オウオウと風音が鳴って。そして止んだ。

 ……民家。

 朽ちかけた大きな家屋だった。

 それは木々の切れ目に、本当に唐突に何もない所から出現した、という有様の邸宅だった。

 森の中を優に三時間か四時間かは歩いただろうか……。

 おかしなことに魔獣も魔物も気配はまったくなく、俺はひたすらまっすぐに悪路を歩いてきていた。

 そうして、森の中奥近い辺りにあるにしては、やけに不自然なこの場所にたどり着いた――不自然に、開けた箱庭だ。

 空気に温度が感じられる。ついさっきまで誰かがいたような。

「……明らかにちゃんと手入れされている。何かが住んでいるな……」

 土が掘り起こされ耕された畑、ついさっき使ったばかりらしい湿った泥のついた農具、そして近くには古井戸……

 確認すると井戸は枯れていない、水は腐ってもいない、生きている井戸のようだった。

(もしかして、こんなところに人が住んでいるのか……?)

 俺は、誰か住み人がいないかとその家に近づいて――、


 ダン、と。


「!」

 すると。

 家の奥――裏手の方から、何か重たいものが落ちたかのような、何かを裁断するような音が聞こえてきた。

「…………」

 今の音は、明らかに自然から発生した音ではない。

 俺は迷うことなく、その音の正体を確かめるために家の後ろの方へ回り込んでいく。

「――――」

 そして見た。


 ――

 

 女……それもかなり若い……いや、幼いとさえ言えるかもしれない。

 顔の方は逆側を向いているため表情は伺えないが、小さな頭と雑に結われた黒髪が、その年齢の幼さを容易に推定させる。

「…………」

 今、この瞬間たった今……殺された、というのだろうか。

 首を切断されて殺害された。

 だとしたら、誰に? 一体どういう目的で? 幼い子供を……

 首の断面部分からは鮮血がとめどなくあふれ出て、土をじわじわと際限なく濡らしていく。

 見るに堪えないその光景から、それでも俺は目を逸らせない。

 なお警戒して、その首を切り落とした者の姿を見ようと一歩、また一歩と気配を消して接近する。

 それは、ただの興味本位だった。

「――――!」

 その生首に変化が起こったのは次の瞬間だ。

 ブクブク、ウジュルウジュルと。

 まるで時間が巻き戻るように――水泡が弾けるような音と共に、首がわずかに動き出した。

 。転がって――俺から離れるように遠ざかっていく。

 ずるずる、ずるずると。

 見えない手に引きずられるように、首だけが家屋の影へと消えていって、そうして今度はあふれ出ていた血も、波が引くように首に追従する。

 土に完全にしみ込んでいた血が、今度は土からにじみ出て、大量の水滴のような、小さな虫の大群のような無秩序な集まりになって、これもまた家屋の奥へと消えた。

「…………! ……なんだ、今のは……」

 あとには、なにもない。

 跡形もなく――形跡もなく、痕跡もなく。

 俺が確かに目撃した生首も、血のシミも虚空に掻き消えて、何事も最初からなかったように、何も起こってなどいなかったかのように、静寂だけが辺り一帯、この場を支配していた。

 今はもう夜の月明かりだけだ。

「…………」

 俺は首の消えた先をおもむろに見つめる。

 その先に果たして何があるのか。幼稚な好奇心に身を焦がされるような感覚を覚えて、わずかに口元を歪める。

 そして、それを見た。

「ふ、う…………」





 ――少女だ。

 年の頃は、どう見積もっても十歳かそこらと言ったところだろう。黒髪黒目の小さな体躯をした少女が、首元を抑えて茫然と立ち尽くしていた。

 呆けるように宙を見つめて立っている。

 彼女が着ている服は肌着か下着といったらいいのか、布と布を繋ぎ合わせただけの軽装極まりない代物。

 彼女の首元はプチプチと奇妙な音を上げながら、そこに心臓があるかのように脈動し、血が垂れては引いて……それは波が引いていくように、徐々に傷が塞がっていった。

 そしてその少女の後ろには大きな――刃が降ろされ切った、あまりにもこの場所には不釣り合いな断頭台が置いてある。

「…………?」

 そして少女は俺の存在に気づいて――、

「……あ、え?」

 目を見開いて、普通の女の子のように驚いたのだった。






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