第23話 春日に帰る

阿閇皇女は、不比等の思い通りの方向に話が進むと、目の裏をひっくり返して、あれは誰かの知恵を借りて来たに違いないと顔の皮が裂けるほど悔しがり、不比等の顔へ目に見えない憎悪の炎を吹きかける。


すると、俊介は阿閇の毒々しい顔を目にしてふと武后の顔を思い出した。


「私は坂東の商人ですが、長安にて武后と会って話をする機会を得ました。曲江池という池の畔で武后が刺客に襲われるところを友人とともに阻止いたしましてご褒美も頂きました」


文武は驚いて耳を疑った。


「何、あの恐ろしき武后と話をしたというのか?」


 長久も黙っていられず口を挟む。


「差し出がましいようですが、武后も曲江池で名も無き庶民とお遊び下さいました。是非、今度の都には、天子様がお出ましになりご尊顔を拝すことのできる大きな池をお造り下さるようお願い致します」


「武后はそのようなことをしておったのか……大きな池……考えて置こう!さて、後は都を置く場所の選定ということになるが、これもまた不比等に頼もう。目利きのできるお前ならばきっと良き場所を見つけてくれるに違いない!」


「承知致しました。是非とも、帝がお慶びになる場所を探して御覧に入れましょう!」


文武のご機嫌は最高潮に達し、長辰たちは長安の図板を持って帰って来た功績を称えられ多大な褒美を与えられた。


朝議の終わると不比等は、粟田真人や長辰や智蔵を始めとして、俊介たちに御馳走を振舞おうと自邸に招いた。


「奈良時代の貴族の御馳走か……美味いかな?腹が減って腹の虫が鳴いているよ……」


 快斗が慎太の腹を突く。


「ああ、期待しよう!俺も限界だ……」


「お主たちのおかげで帝の信頼を握ることができた。遷都は難しい事業だ。あの場にいた大臣は藤原の地に根を張っているから腹の中では此処を離れたくはないのだ。それ故、都が移っても大臣の席に座らせてやると約束したことで今は賛成派に寝返っている」


 長辰や長久は、民衆を苦しめる遷都には反対だったが、不比等の強引なごり押しで、新しい都造りが決まった以上、長安のように繫栄する都を造って欲しかった。


「是非、この度の都が、長安のように多くの人々が行き交い末永く繫栄する都となることを願っております。長安の図板さえあれば、これほど本格的に力を入れた都の造営は他にないとされるでありましょう」


智蔵は、美智麻呂がこの場にいないことを残念に思う。


「まさにその通りじゃ、藤原の都も新羅の都を手本にして造営したが、姿だけ真似ただけで住み心地の悪い都となっておる。だが、長安の精髄を搾り取って造ったとなれば、どれほどの都となることか……実に楽しみじゃ!」


傑は、次の都は平城京と呼ばれること、しかし、この都も七十年ほどで平安京に首都の座を奪われてしまうこと、未来の姿が喉まで出ているが言い出せるわけはないと溜息をつく。


粟田真人の舌も転がり始めた。


「新しい都の候補地だが、私は平城の地がいかがかと思っておる。あそこの堅固さを見るにそれまでの都とは比べようもない四神相応の土地相だ。さらに都には、こうした神々の守護も必要だが、長安を見習うとするならば加えて三つの力が必要である。それは、土地の勢い、物の流れ、人心の三つだ。これらが揃ってこそ優れた都になると言うものだ」


 智蔵は念を押すように真人に問いかけた。


「それでは真人様は、現在の藤原宮にはそれらが欠けているとお思いなのですね」


「この藤原の地はすでにどれも失っておる。特に北に低く南に高い土地柄の故、地震、水害、落雷が暴れ放題で、土地が崩れても元に戻るということがない。土地に勢いがないのだ」


「まさしくおっしゃる通り!南に開けていない土地は気が詰まって疫病が広まり神々や人間の勢いが減じてしまうと唐で習いました」


 智蔵は長安に比べると、藤原京が南にどん詰まりのような場所であることを気にしていた。


 不比等もかねてから考えていた持論をぶった。


「私も思うが、東西南北の四方が全て開いて物が流れる地形が良いのだ。ところが此処は川や道が少ないから悪いものが溜まってしまう故、物の流れを回転させるには不便な場所だ。さらに、都に暮らす人々を結び合わせるのは人心だが、帝の父がこの地を選んだ御心はすでに消えかかっている。新しい御心が必要なのだ。だが、お主たちによって大唐の心を帯びた図板が舞い込んだのだから、新しき都の造作については鬼に金棒というものだ」


 俊介は傑に囁く。


「日本の歴史を見ても難波、飛鳥、近江などが都として続かなかった理由は、きっとこうした条件が欠けていたからだろう。結局、都として十分な機能が備わっていたのは京都だが、東京だってこうした条件を失えば首都の地位を失うかもしれないな……」


「ああ、いずれにしても、長安の機能を真剣に学び取ることができれば平城京こそが永遠の都になったかもしれないけどな……」


不比等の話に乗り掛かるように長久が再び興奮気味に口を尖らせる。


「たとえ新しい心が生まれても、都にはその心を結び合わせる場所が必要ですよね。それで、私は長安の曲江池に並ぶ池を造ってほしいと帝に言ったのです」


「都を政治のみの場所にするのは私も反対じゃ。日本の都も長安のように永く続く都にするにはあらゆる階層の力を集めることが大事じゃ。だが、都を政治の場としか考えられぬ者も多くてな、私も先ほども朝議の前に反対派からの襲撃を受けて難を逃れてきたばかりだ……」


「襲撃?父上、それは誠でございますか?」


 武智麻呂が驚いて不比等の顔をじっと見た。


「ああ、だが赤髭が搦めとってくれたから私は無傷だ。だが、やっとこれで誰の差し金かは判るはずじゃ」


「わざと隙を見せて襲わせたのですか……何と危険なこと……」


武智麻呂は父親の無茶な振る舞いに肝を冷やした。


「平安京へ遷都する時も工事責任者が殺されている。住み慣れた都を捨てるとはそう簡単なものじゃないな……」


 傑が囁くと都真子が返した。


「藤原京から平城京って、すんなり遷都したって歴史には残っているわけよね……こうした危険なことが起きていたなんて、真実の歴史を伝えることは難しいわね」


「平城の地か……武智麻呂!早速、下見を致せ!赤髭や瀬乙を護衛に付けてやる!」

 

「承知致しました!」


 若き武智麻呂が潔く返すと長辰が口を開いた。


「平城は私たちの生まれ育った土地でございます。是非とも、御案内致します」


「それは都合のいいことだ!お主たちの馬も出そう!」


「俊介、春日村に戻るきっかけができたぞ!俺たちも馬の尻尾に掴まって行こうよ」


傑がにんまりして囁くと俊介も笑顔で返した。


「渡りに船だな」


翌日、不比等が平城の地の視察を文武に報告した。


「私も行きたい!」


文武は常に蒼ざめて咳の出るのも気にせず、行幸を強く希望したが阿閇の猛烈な反対に遭う。


「藤原の都はまだ建てている途中でございます。それに平城などという見知らぬ土地より難波の都だって直せばまだ使えます。軽々しく動いてはなりませぬ」


こうしてこの時は阿閇に窘められたが、文武は死ぬ直前に平城と難波に行幸をしている。


武智麻呂を責任者とした視察団は平城へと出発した。

 

 揚州で逃亡中に乗馬の技を身に付けた俊介たちも、一人一人に馬を与えられ快斗は有頂天になっている。


「はははっ、慎太の馬は可哀そうだな!お前の体重じゃ、途中で嫌がられて振り落とされるぞ!」


「馬鹿言え!俺はお前と違って、動物には親切だからすぐ気に入られるからな」


 視察団は、馬の体力を考慮して常歩と速歩を交えたが、それでも半日も掛からずに平城の地に到着した。


 老人になっても気力溢れる真人は武智麻呂に説いた。


「此処は長安によく似ている。藤原では大極殿を都の中央に建てているが、それは間違いじゃ。長安では大極殿は北端に位置し明るい南に面しておる。それが天子様の座する場所なのだ。さらに此処から真っ直ぐ朱雀大路を造り、十条十坊の構えをとっても十分な広さがある」


「今の都は南に山があって流れ出た水を一手に引き受け、まるで大極殿は水に浮いていたようなものです。此処ならば北面する山も深くなく、流れ出る水はすべて西へ向かうから水捌けの良い土地である。父にしっかり申しておきます。だが、幾つか陵墓があるようだが……」


「気にすることはない。かつての都でも陵墓を剥いだ前例はある。儀礼を持って清めれば大丈夫であろう」


 真人は涼しい顔で言い退けた。


 長辰と長久で川や池など記憶にある限り案内し巡覧すると視察は日暮れまで続いたが、牛の皮を敷き詰めたような平たい平城の草原は武智麻呂の眼にも都にふさわしい場所に映った。


「十分なもてなしをして差し上げられるか分からぬが……今夜は私たちの春日村へお泊り下され!」


 長辰が気遣いを見せる。


「いや、それには及ばぬ。土師の館へ泊る手筈ができておる。お主たちは村へ戻るが良かろう」


 武智麻呂に促された長辰は、馬を返却すると夕暮れの東山に歩みを進めた。


何しろ、音沙汰さえ伝えることができず時間ばかりが過ぎた故郷の風景を目にすると、打ち鳴らす鼓の皮のように心臓までが振動を始める。


村には夕暮れの灯りが煌々と薄闇の中に浮いている。


長久は家の前に立った。


ふと追われて逃げ出した日の鮮やかな記憶が蘇ったところで腹の底から大声を張った。


「母上!今、帰りました!」


声を聞いて弾けるように現れたのは妹の春陽だ。


「兄さん!えっ!御父上……」


「春陽か?驚いたな、こんなに大人になっているなんて!母さんは元気か?」


 長辰は目を細めて長女を眺めると幼かった頃の姿が瞼の裏に現れる。


 声を聞きつけて夫人が顔を出した。


「まあ、貴方様こそご無事で何よりです!それに長久も一緒なんてまるで夢を見ているようです!」


 長辰の妻、千草の眼から涙が噴き出る。


「長久は妻となる女子も見つけて来たぞ!大したものだ!さあ、積もる話は中に入ってからしよう!」


 宴は一晩中続いた。

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