第19話 駒彦

「お前は大江赤馬の船で働いていた者ではないか?」


「はい、私は駒彦と言う者です。貴方は確か、山田島沖様、大将のところへよくお出でになられていた方でございますね。その頭は……出家されたのですか?」


「その通りだ!で、赤馬は今どうしてる?」


 駒彦は目を伏せた。


「大将は死にました……十年前、日本へ帰る途中、高麗で海賊に襲われ傷を負いそれがもとで命を落としました」


 智蔵の周りの空気が縮まった。


「さぞかし無念なことだったろう……お前はどうしていたのだ?」


 長久も大江赤馬の下夫と聞いて耳が尖った。


「俺は石川長久と言って奈良の春日村の者だ。俺も隠れて交易をしていたから唐や高麗の海賊とはよく遣り合ったが、俺の船は逃げ足だけは速かったから、そのおかげで生き延びたよ」


「えっ、春日村!里市という男をご存じか?私の手足となってよくやってくれる男だ」


「何!里市が生きているのか?」


 今度は長辰が首を突っ込んだ。


「ええ、十五年前の内乱のとき、李敬業側に味方して追われていたのを拾ってやった男です」


「それは吉報だ!里市は大親友だ!生きていてよかった!」


「今は林邑で暮らして交易の中継を任せています。私と言えば、大将が息を引き取る前に、後を頼むと船を任されました。日本との交易は危険過ぎてやっていませんが、林邑や真臘との交易で稼いでいます。赤一丸は港に停めていますから、是非お寄りください」


「何?赤一丸をまだ使っているのか?」


 智蔵はふとある考えが頭の蜘蛛の巣に引っかかる。


「もう引退の一歩手前で、次の航海でお釈迦にしようと思っています。だけど、大将の命みたいに思えて捨てるのは忍びなくて……」


「気持ちはよく分かる。私も世話になったことがある船だ。もう一度目にすることができれば、こんなに嬉しいことはない」


「おい、傑……林邑とか崑崙とか、いったいどこの国だ?」


 快斗が傑に問いかける。


「林邑は今のベトナムで、真臘はカンボジアだ」

 

「それなら分かる。お前、本当に物知りだな……」


 智蔵は目に考えを浮かべたまま長久に誘いかけた。


「一緒に赤一丸を見に行かないか?ことによると、赤馬の亡霊に会えるかもしれないからな。やつに呼ばれているような気がして来た」


「どうぞ、今からでも」


 駒彦は智蔵の冗談ににこりと歯を見せると、長久は智蔵の意味ありげな言葉を受信して明珠を振り返る。


「明珠、シャディの護衛の仕事があるだろうから、さきに宿に戻っていてくれ!事情は後で話す!」


 長久はシェルとシャディを見送ると赤一丸に向かった。


「海賊に赤一丸を奪われなかったのは、大将の機転です。積み荷の半分は奪われましたが、大将は左舷横から海水を入れて船を傾かせて沈むと思わせたのです。ところがそこは排水ができるような仕組みにしてあったので、海賊が去ったあと汲みだして航海を続けました」


「さすが、赤馬だ。海賊も沈む船を奪っても仕方がないからな。実は私と赤馬で船に隠したものがあるが知っているか?」


「いやっ、そのようなことは大将から何も聞いてはいません。色々話したいことが山のようにあったのでしょうが、傷が深く言葉もままならないまま息を引き取りましたので……」


 駒彦は大将の記憶が蘇ると胸の詰まる思いが込み上げる。


 智蔵は中央の船室に入ると隅の壁に視線を釘付けにして、その前にしゃがんだ。


「この壁が外れることを知っていたか?」

 

 駒彦は目をぱちくりさせて何も細工の跡の見えない壁を覗き込む。


「此処に私と赤馬で隠した物がある。外してよいか?」


 隅の壁は一部が組み木になっており、四方の特定の板をずらすとぱたりと真正面の板が前に外れて床に落ちて音を立てた。


「あった!これだ!」


 中から出て来たのは紙の図面で、紛れもなく長安に建つ建物が智蔵の目に浮かぶ。


「驚きましたね……壁板こんな仕掛けがあったなんて少しも気づきませんでしたよ。いったい何が記してある紙なのですか?」


「言わば、これらは長安の役所の建物を建築する際の図面だ!実はまだある!荷物を入れるための木箱だが、海賊に奪われなかった当時の木箱は残っているか?」


「ここに十数個ほど残っています」


 智蔵は積み上げられた木箱の山を振り返る。


「俺たちも手伝いますよ!」


 長久や俊介たちも木箱を床に降ろすと、一つ一つ蓋を開けて手を突っ込んで二重底の上板を引き剥がした。


「図板が隠してある!」


 全ての木箱をこじ開けると六枚の図板が現れた。


「手元には俺が持っている一枚を含めると七枚全てが揃ったことになるが、おかしいな?計算が合わない!一枚は武后が持っているはずだが……」


 長久は額に皺を寄せる。


「はははっ、武后が持っている一枚に似たものを子麻呂が作ったのだ。子麻呂は全部揃ったように見せかけたわけだ」


 智蔵は子麻呂の小細工を笑い、からくりを明かした。


「お主だから言うが、これは長安の建築を記した、この国の秘密中の秘密だ。遣唐使の子麻呂が藤原不比等様から極秘の任務を請け負い、手に入れたら日本に送って不比等様の手柄として都造りに使うつもりだったものだ。これらは貰ってよいか?」


「もちろんです。大将が大事にしていたものなら独り占めしたらあの世から叱られてしまいます」


「忝い。赤馬もきっと喜んでくれるだろう。これを帰りの遣唐使船の出航が決まるまで保管した後、秘密の内に日本に運ぶのだが、何しろ、持っているだけで首の飛ぶ代物だ。いったい、誰がその役目を担うかだ!」


 智蔵は険しい目つきで危険を口にする。


「俺がやろう!」


 有無も言わさぬ口調で長辰が申し出た。


「俺の屋敷なら隠し場所には困らないし、役人にも顔が利くからな。半年から一年もすれば船も修理され出航できるだろう。それまでの期間だ。訳はない」


 だが、智蔵の心配の縄は解けない。


「実はここに来て、都の警吏長官に武志忠という男が就任して、図版の捜索が一層厳しくなっている。楊玄超という血も涙もない男を手下に使って、俺の身辺にも迫ってきている」


「それなら、俺が、父に買い戻して貰った疾風を使ってすぐにでも図板を持ってこの国を出よう!俺なら長安に戻る手間も無いから、早いに越したことは無い。父上にはこちらの仕事がありましょう。後で悠々と帰国して下さい!」


 長久は明珠の姿が一瞬、頭をよぎるが血流が勢いよく身体全体を駆け巡った。


「そうか、武志忠が動いているのか……私も武には手を焼いている。漢人に甘く異国民には厳しい男だ。一度目を付けるとしつこく見返りを求めて来る計算高い男だ」


「俺に任せて下さい!俺なら知られていない自由な身だ」


 長久は重ねて口を尖らせた。


「分かった。私が下手に動くと返って尻尾を出して危険になるかもしれない……長久に任せよう。智蔵殿はどうされる?息子と一緒にいて貰えれば安心だが……」


「私は長辰さんのように、この国で一旗揚げるまでは日本には戻らないつもりで渡って来た。そろそろ坊さんは止めて商人に戻るつもりだ」


「俊介たちも俺と一緒に乗り慣れた疾風で日本に帰ろう!俺もお前たちがいると心強い!」


「任せてくれ!俺も慎太も目はいいから見張りにはぴったりだ!」


 快斗が頼りにされて調子に乗る。


「そうと決まったら、揚州で疾風の水夫を雇わないとならないが……船だけあっても動かないからな」


 長辰の癖は思案中に顎を撫でることだ。


「それはご心配なく、私には日本人の伝手を多く持っております。いっそのこと水夫全員、日本人を集めて見せます。日唐の往来に許しが出たと触れれば堂々と航海ができますからね」


 駒彦が気炎を上げると赤一丸まで揺れる。


 だが、都にいる筈の武志忠は、遣唐使の監視の任務を授かり、長安から揚州に足を踏み入れていたのだ。


 さらに智蔵の動きにも目を光らせていた。

 

 何故なら、獄中の子麻呂は遣唐使ということもあって、日本政府に気を使った前任者が厳しい取り扱いを避けていた。


 だが、長官になったとたん、武后の面前で目立った手柄を欲しがった武は、子麻呂の取り調べに苛烈になるや、拷問の挙句、とうとう子麻呂は山田島沖の名を口にしてしまう。


 そして、楊玄超による爪でかじり掘るような島沖の執拗な追跡が始まると、島沖は子麻呂と偽り、その名前を借りて智蔵へと出家したのだが、あっさり突き止められていた。


 智蔵は、自らの安全域が風前の灯火となっていることなど露も知らず、赤一丸への尾行まで許してしまったのだった。


 翌日、俊介が目にしたのは、港の奥に繋がれている美しい流線型の帆船、疾風の雄姿だ。


「少しも傷んでいないわ!水上のサラブレッドって感じね!」


 都真子も誉め言葉に力が入る。


「これで日本に辿り着いたら、春日村の杉に戻って、現代に帰らないと……」


 傑も期待のバルーンを膨らませる。


 驚いたことに、長久が明珠を連れて港に現れた。


「シェルとシャディの護衛はいいのか?」


 俊介が不安げに尋ねると長久が返す。


「父と部下たちが長安まで同行することになったから大丈夫だ。それに長安からは苒徳の精鋭の出迎えがある。ところで俺は明珠を日本に連れて行くことに決めた。父の了解も得てあるし明珠も日本を見たいと言っている。母にも逢わせるつもりだ。シェルもシャディも賛成してくれて苒徳にもちゃんと話すと約束した」


「羨ましいな、慎太!」


 快斗が慎太の丸太のような胴に手を回す。


「よせよ!気持ち悪い!お前も死ぬような目に遭えばいいんだ。そうすりゃ、お前にだって女神が一人くらい現れるさ」


「慎太は羨ましくないのか?我慢するなよ!」


「馬鹿言え!俺はまだ修業中の身だ!野球の神様が来てくれる方が先だ。お前だってそうだろう!女神より、サッカーの神様に来てもらえよ!」


「お前、善いこと言うね!女神よりサッカーの神様か……当然だな」


 暫くすると、智蔵と駒彦が背後に大勢の日本人を連れて現れた。


「水夫として疾風に雇う者たちを連れて来た!」


 駒彦が叫ぶやいなや、集団の中から大声が上がると長久の瞼に稲妻が落ちた。


「長久!」


「長久さん!」


「熊井か……まさか!それに三牛も!」


 長久が地を蹴って駆け寄ると抱き合って笑顔の花が咲いた。


「会いたかった!無事で良かった!」


「お前もな!」


 俊介も男たちの中に見覚えのある顔が揺らめくことに気づく。


「あの人は里市さんじゃないのか?毛見志さんもいる!」


「俊介じゃないか!それに皆も!変わらないな……あれっ、長辰さんは居ないのか?」


「長辰さんは今や長安の大富豪だよ!」


「そりゃ、凄いな!やっぱり長辰さんだ!」


「いずれ日本で逢えるから心配はいらないよ!」


 俊介は胸は日本の空を舞う。


「あいつらは何者だ?」


 警吏の集団が影を見せると、悪魔が人の姿に化けたような楊の牙が駒彦に噛みつこうと赤い口を開ける。


「ここに智蔵という僧侶はいるか?」


 

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