第18話 揚州での再会

 遣唐使船は、目と鼻の先まで近づいて来ると、赤茶色の薄革を顔に貼り付けたような水夫が、舫い綱を投じるやいなや、つるりと足裏を滑らせて長江へ落ちそうになった。


 どっとどよめきが上がる。


「船をちゃんと停められるのかよ!」


「長旅で足腰にガタが来てるってか!」


 失敗した水夫は、歯を剥き出して、もう一回戦、綱を放り投げる。


 すると、桟橋で口を開けて見ていた水夫は、宙を飛ぶ綱を両手に絡め、目一杯、引っ張って船を接岸させると、別の水夫が錨を投じて船は辛うじて停止したのだ。


「いやはや、彼方此方傷だらけじゃないか!雨で腐り風で削られ日光に焼かれ、嫌というほど、痛めつけられたな……」


 かつての遣唐使たちは、どんなに船が痛々しい姿になっていようと、まるで遣唐使船を天からの授かりもののように感じて感極まって涙を流した。


「やっと迎えに来てくれたか……三十年間とは、何と長い歳月だったことか……」


 全てを置き去りにされた遣唐使たちは、この三十年、自棄を起こして絶望したり、諦めや悔恨と戦ったりしながら重過ぎる自らの運命に身を沈めて生きて来たが、やっと、錆びていた歯車が再び回転し五体が浮上し始めるのを感じた。


 こうした集団の隣に希望の光が立ち昇る遣唐使船に視線を釘づけにしている者たちがいる。


 まさしく、長久とシャディ、明珠、それに加えて、俊介たちや智蔵、そして、居ても立っても居られなくなってやってきた長辰だ。


「とんでもなくボロボロになっている!」


 剥がれた板や折れた手摺を目にした快斗は溜息を吐く。


「よくこれで荒海を渡ってきたな!」


 呆気にとられて船を見ている慎太も本音を呟く。


「まあ、そう言うな!この時代の日本の造船技術の粋を集めて造った、れっきとした遣唐使船だぞ!何よりかにより、遭難しなかっただけ良かったよ!」


 傑は、後にも先にも、日本の優れた技術力の肩を持つ。


「朝鮮経由……何処の海を渡って来たんだろう?」


 長久は航路が気になって疑念を口にする。


「おそらく、後で聞いてみないと分からないが……新羅を経由するのは極めて危険だとすれば……筑紫の西、福江島の辺りから一気に海を渡ったかもしれないな」


 長辰は憶測を交えて返す。


「早く出て来てきてくれないかな……」


 歓迎の雅楽を奏でている隣で、唐の役人たちは、日本の大使たちが船から降りて来るのを、今か今かと、じれったそうに顔を伸ばして待っている。


 すると、ひょんなことに、最初の下船者が一気に飛び出して姿を見せた。


「ワンワン、キャンキャン、キーキー!」


「何だ、ふざけている場合かよ!」


 どういうわけか、子猿を背中に乗せた柴犬が、役人たちの前を素通りして、野次馬の集団に飛び込んだ。


 通り抜けた二匹は、ご主人様の出て来る方向に身体を翻して行儀よく座ってみせる。 


「馬鹿にしてやがる……犬猿の仲のくせに!」


「多分、唐人水夫の腹に足しされるはずが、選りによって、喰われずに生き延びたわけか……」


「いよいよ次は、堂々たる遣唐使様のご登場だ!」


 群衆の興奮は最高潮を迎える。


「バッシャーン!」


 遣唐使船から、やかましく銅鑼の音が鳴り響いた。


 まず最初に、団長である執節使の粟田真人が、蒼ざめた顔ではあったが恭しく威厳のある態度で姿を現わす。


「あれが、日本の大臣か?実に礼儀正しいな!」


 次に、船酔いで蒼白になりながらもにんまりした顔を見せる高橋笠間が続くと、後から後から、副使や判官、録事の山上億良等の役人が続々と降りて来る。


「唐の空気は実に美味い!」


 大きく深呼吸をした山上億良は、まぎれもなく大陸の味を実感している。


「そりゃ、言い過ぎだろう!何処の空気だって空気は空気だ、美味いなんて気の所為に決まってる!」


 とは言うものの、誰もが命懸けで海を渡って到着した喜びで有頂天だ。


 続いて降りて来たのは船長の笠麻呂だ。


 何しろ、笠麻呂は、常に頼りない副団長を立てながら、嵐にあっても動じず、勇敢で決断力があり、無事に航海できたのは、ことごとく、この男の腕にかかっていた。


 笠麻呂は良く出来た人物で人使いが上手い。


「俺は人の悪口は嫌いだ!人を使うには良い面だけを見るようにし、欠点は自ら気づくように計らうことが大事だ!」


 笠麻呂は、常々、こうしたことを座右の銘にしていたから、彼を嫌う者は誰一人としてなく、航海が窮地に陥っても、この男を中心によく纏まって乗り切った。


「帰りも困難な旅にはなるが……」


 笠麻呂は唐の土を踏みしめながら、船長の勤めを半分だけ全うした満足感に浸っている。


「父よ!間違いないわ!父さん!」


 シャディは、ぞろぞろと続く遣唐使の後から、ひときわ骨組みの高い人物に視線が釘付けになると、甲高い声を上げてその男に走り寄り太い首に飛びついた。


「えっ、まさか……シャディ?」


 ペルシャ人の男は、雷に打たれたように固まった。


 一目で娘であることに気がつくと、シャディを抱きしめた。


「お前に此処で逢えるなんて、まるで夢のようだ!」


「やっと、会えたわ、父さん!お母さんもとっても心配していたのよ!それで、私、どんなことがあっても、お父さんを探そうとペルシャから唐へ渡ったのよ!」


「なんて危険なことを……でも、私の娘なら仕方あるまい……意思の強さは母親譲りだな!」


「シェル!私を覚えているか?都で、砂漠やキャラバンの話をいろいろ聞かせてもらった石川長久だ!おれも、大陸に渡った父に逢うことができたよ!そのくせ一方で、都に隠れて交易をしていたことがすっかりばれて、唐に逃げて来たよ!」

  

 長久も懐かしいシェルの顔を見て話し掛ける。


「あはははっ!そうだったのか!ああ、覚えているとも!都の役人をしていた若者だ。お前も中々、やるじゃないか!」

 

 長辰は似通う父親の立場を感じて横合いから口を挟む。


「私は長久の父の長辰だ!私も大陸で一旗あげるために家族を置いて唐に出てきたが、運よく羅馬まで行って商売の道が開け、今では長安を拠点に多くのキャラバンをペルシャにも送っているぞ!人の首にぶらさがるような人生はまっぴらだからな!」


「凄いじゃないか!私も日本で一財産を築くことができたから、ペルシャに戻って商売を始めようと思っていたよ。その矢先に遣唐使船の話を聞いて無事に乗せて貰ったよ。シャディ!ペルシャに一緒に帰ろう!」


 シャディは、周りの人間に分らぬように、ペルシャ語で耳打ちした。


「私は突厥で暮らしているの、幸せよ!是非とも、夫である苒徳に会ってほしいわ!」


「何だって?お前……結婚しているのか?聞くところによると、突厥とは恐ろしい騎馬民族じゃないのか?」


「それは唐がわざと流した嘘よ!突厥は、べつだん、野蛮な民族じゃないわ!此処に居る長久も明珠も私と一緒に突厥にいるから判るわよね!」


「たいした娘に成長したもんだ!それほどまでに言うなら、ペルシャに帰る前にお前の夫に会いに行ってみよう!」


「とうとう、何年も夢見た素晴らしい日がやって来たわ!」


 シャディは躍り上がるような喜びで父を見つめた。


 一方、唐の役人たちが挨拶を返している。


「はるばる、日本よりのご航海、ご無事で何よりでございます!お身体はいかがでございましょうか!あちらに見える迎賓閣において長旅の疲れを癒していただくよう、宿舎もかねて、お食事を用意しております!さっそく、ご案内申し上げますので、こちらにお進みください!」


 列の先頭にいた唐の役人は手短かに言うと、団長の粟田真人は、唐の出迎えを深く感謝して一礼を返した。


「誠に有難いことです。日本を出て以来、満足な食事は取れてはおりません。かねてから、日本の評判でも、質の良い肉を漬け、香りよく調理した魚、菜の味わいや種々の汁の揃った貴国の料理ほど優れたものはありません。こうした料理を頂けることは、旅の途中、一日足りとも忘れたことはありません」


 唐の役人は、唐国の文化を褒められたことで、満面の笑みを浮かべ心から頷いてみせる。


「はてさて、遠く離れた日本から荒波を越えて来られた貴殿方でなくしては、露も知り得ないことでありましょう。本日はさらに江州の酒、北国から取り寄せた肉類、広州の海から上がった海老や蟹などをご用意いたしましたので、心ゆくまで召しがって旅の疲れを癒してくだされ」


「お心配り嬉しく存じまする!」


 真人等一行は馳走の待つ迎賓閣へ向かう。


「俺たち御馳走に有り付きたいものだ……」


 水夫たちは、休む間もなく、洛陽に向かう準備を始めたが、何しろ、この先も運河船と陸路の険しい旅だ。


 とは言え、洛陽まで行って武后に会えるのは、数百名の内、たったの三十名程度であるときている。


「おや?あの男、どこかで見覚えがある……」


 智蔵は、桟橋に集まった群衆の中から一人の男の横顔に釘付けになった。


「そうだ!間違いない!」


 

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