第17話 三十年ぶりの遣唐使船

「俺は部族長の苒徳だ!」


通訳が伝える。


「えっ!突厥の部族長?」


 苒徳は、背はそれほど高くはないが、首が胸にがっしり嵌り、浅黒く目尻が吊り上がった精悍な顔つきをしており、鋭く人を射る目と有無を言わさぬ物言いに部族長としての自信が満ち溢れている。


「明珠を救ってくれたことに礼を言う!」


 明珠は長久の回復を待って、あらためて苒徳に会わせるつもりであったが、長久が日本人らしいと聞いた苒徳の方から、妻のシャディと通訳を連れて不意に現れた。


「お前の名前は?日本人なのか?」


「石川長久と言います。日本人です!」


 傍らにいたシャディはとたんに目を輝かせる。


「チョウキュウか!日本のことを聞かせてほしいのだが……肝心なことから聞くと、此処にいる私の妻、シャディはペルシャ人だ。シャディの父親が日本に渡ったらしいのだが何か知らないか?」


「ペルシャ人?もしや……シェルのお嬢さん?」


「ええ、父の名前はシェルよ!」


「シェルなら日本の都にいます!私も何度も会いました。シェルから異国の話を聞くのが楽しみだったからです。もうじき、三十年ぶりの遣唐使船に、一緒に乗ってやって来るはずです。来週には着く予定なので、揚州に行けば逢えるに違いありません!シェルは、揚州でペルシャ船に乗り換えて祖国のペルシャに帰るつもりだと言っていましたから、急がないと……」


 通訳が、長久の言葉を伝えると、シャディの顔は華が咲いたように明るくなった。


「父は生きていた!来週……揚州……急いで会いに行かなくては!」


「日本では、長い間、唐へ渡ることは禁止になっていたので、日本から出られなかったのです。折も折、日本と唐との国交が復活したので、ちょうど遣唐使船に乗ることができたのです!私も是非、遣唐使船の到着を見にいきたいと思っています!」


 シャディは夢のような言葉を聞いて嬉し涙を流した。


「こうしちゃいられない!シャディ!護衛をつけるからすぐに揚州に出発だ!」


 苒徳の革のようにのめした厚い顔が一段と柔らかく弾み、うずうずした口でシャディを促す。


「日本のことは、また今度聞かせてくれ!チョウキュウ!」


 苒徳は、長久の脚の傷に目を落とすと、そそくさと話を切り上げて、通訳を残して出て行こうとした。


 すると、すかさず明珠が話を割る。


「私は高句麗に居た時、日本人の捕虜から少し日本語を習ったことがあります。私一人で大丈夫です!」


「それは初めて聞いたわ!」


 シャディは明珠が日本語を話せることに驚いた。


 智蔵や俊介たちの安否が気になっていた長久も苒徳を引き留めるように慌てて問いかけた。


「実のところ、私には日本人の仲間がおりました!どうなったのか、ご存じでしょうか?」


「あの日本人たちはチョウキュウの仲間だったのか……それは悪かった!捕虜として檻に入れてある。すぐに開放して天幕に移してやる!」


「無事だったのですね!良かった、有難うございます!」

 

「早く脚の傷を治せ!明珠、頼んだぞ!」


 明珠は献身的な手当を降らし、長久の傷口には蘇生の血が集結すると、思った以上の回復が脚に戻り始める。


 二日もすると、案山子のようにぴょんぴょん片足で飛び跳ねて、俊介たちのために膨らませた天幕に頭から突っ込んだ。


「皆、無事で何よりでした!はて、武后様まで……いやはや、酷い目に遭いましたね……」


「長久のおかげで檻から出られたよ!武后様は、智蔵さんの母親と偽って一緒に開放されたのだが……いったい、どうしたんだ!その脚は?」


 俊介は長久の桜色の頬を見て安堵したのも束の間、脚の怪我を見て顔色を変える。


「斬り合いに巻き込まれてしまってな……だが……掠り傷だ!どんどん良くなっている!追っ付け、明日には長安に帰してくれるという話だ!」


 智蔵が訳して武后に伝えると躍り上がる。


「そりゃ、吉報じゃ!一日も長くこんな豚小屋にはおれん!だが、こうして、危ない目に遭うのもたまにはいいのう!天子様と馬に乗って、戦場を駆け巡った昔を思い出して血が湧く想いじゃ!」


 翌朝のこと、突厥の若武者が手綱を握る馬車が、約束通り天幕の前に止まった。


「俺は此処でやることが出来た!父にはくれぐれも無事だと伝えてくれ!」


「一人で大丈夫なの?」

 

 都真子が心配そうに口を開く。


「ああ、俺は遣唐使船の到着を見るために、此処の人たちを案内して揚州に行くことにした!とは言え、おそらく、父も遣唐使船を見たいと言っていたから、揚州で会うことになるかもしれないが……」


 明珠もシャディの護衛を命じられて揚州行きが決まった。


 何にも増して、長久と一緒に行けることがことさらに嬉しい。


 長久も同じ気持ちを明珠に抱いている。


「脚の傷薬は私が貼り代えましょう!」


 長久は明珠の健気な気持ちを耳にすると嬉しくなって返す。


「何かあったら私も明珠を守ろう!脚は使えなくとも両腕がある!」


 長久はこうした言葉を吐く意外な自分を顧みて、もう好奇心だけで生きているような無頼な人間は辞めた!確実に目の前にいる人間のために生きよう!と骨太の決心が全身を駆け巡った。


 俊介たちが長安に戻ると、助けられた恩など何処ぞへ吹く風と、顔皮が何層にも分厚い武后は、苒徳の陣営目がけて唐軍の遠征を決定する。


「遣られっぱなしではいかん!ほどほどに脅しておかねばなるまい!」


 こうした命令を出しておきながら、とうの武后はさっさと長安を引き払って、何事もなかったように洛陽へ帰ってしまう。


 その後、武后が長安に戻ることは金輪際ない。


 苒徳は、のっけから唐軍の逆襲は計算済みで、そんなこともあろうかと見張りを厳重にしていた。


「唐にしては、珍しく動きが早いな!それならばこちらも迅速さでは負けてはいられない!戦うと見せかけて、奥地へ退却だ!できる限り誘き寄せてから一気にけりを付けてやる!」


 苒徳は精鋭五十騎だけを残し、数百人いる遊牧集団は、彼らの生命維持の源である家畜を連れて草原から草原へと大移動を始めた。


 苒徳は数人の部隊長と計画を練る。


「唐軍の斥候がやってきたらそいつを倒せ!唐のやつらは、斥候が帰って来ないと様子が判らないから再び送ってくるはずだ。そいつもまた倒せば、やがて、業を煮やして大勢で来る。そこに囮として無人の天幕を十か所ほど設置し、やってきたら取り囲んで火をつけよ!一遍に油を使い切るのでなく、規模は小さくていいから何度でも繰り返して、戦う気力を失わせるのだ!」


 苒徳の計画通り、唐軍は慣れない土地で、囮の場所で火攻めにあって、いらつき始めた。


「おい!水が切れそうだ!水が無ければ咽喉が乾いて闘えん!」


 その一方、突厥のすばしっこい若手は、唐軍の夜営地に忍び込んでは水袋や水桶など水を溜めてあるものに全て穴を開けて帰って来ると、唐軍は乾燥地帯での水不足に陥った。


「もう一つ策がある。奴らを少しずつ沼地に誘い込め!奥地まで入り込ませれば寝るにも寝られないというわけだ。いいか!こうした策は一度に多くの兵を倒すものではないが根比べだ!早く音を上げた方が負けだ!気の合うもの同士、二人一組で動けば、小回りが利いて良い!徹底的に、やつらを撹乱させるのだから、思いついた策があれば何でも実行せよ!それを何度も繰り返せば黙っていても帰ってしまうよ」


 苒徳の策は見事に的中した。


 火攻めで焼け死ぬものも多かったが、水の供給が止まり脱水を起こすもの、沼地で毒水にやられる者など多くの兵が、戦闘以外で命を落とした。やがて、そうこうするうちに、水不足や待遇を巡って暴動が起き、戦意を失ってとうとう帰国してしまったのである。


 勝利した苒徳は言う。


「唐の指揮官が優秀でなくて良かった!我々が弄した策など指揮官が優れていれば、とっくに裏をかかれて成功はしなかっただろう。何事も誰を相手にするかを知ることで成功も失敗もある!今のところ唐には優秀な指揮官はいないようだ……」


 西暦七〇二年、東シナ海の荒海を越えて、日本からの遣唐使船が長江に入った。


 風に乗ってぐいっと速度を上げ、大河の水面をすいすいと進む船の甲板には、澄み渡った青空を濁った眼で見上げている遣唐使団の副団長、高橋笠間がすっかり痩せこけた姿を晒している。


 何しろ、笠間は船は大の苦手ときているのに、副団長に就任したものだから堪ったものじゃない……日本を出てすぐからも最悪の船酔いで散々な目にあっていたが、東シナ海を渡る時の航海はその何十倍の船酔いにあった。


 出すものがないのに、胃というのはまだ何か出そうとするのを経験した彼は、胃に対して非常に頭に来て、しこたま酒を飲んで、船酔いと酒酔いとどっちが強いか勝負したところ、当然のことながら、船酔いに酒酔いが加わって、三倍船酔いをして地獄を見るという愚か者だ。


「あと少しで陸に上がれる!」


 長江の岸辺を見ながらそう思うと嬉しさで若干食欲が出たが、揚州の一歩手前で再び激しい船酔いを起こし、船縁から海に顔を突き出すと水面に上がってきた魚達が一斉に海水を引っかけてきてびしょ濡れになる様は海鳥の同情をかったほどだ。


 これほどまでの苦労、苦難の航海だが、生きて唐に着けるだけ幸運であって、何度も遭難、漂流を繰り返し、多くの人命を犠牲にしたのが遣唐使の歴史である。


 それだけに航海の成功は、唐の文化の日本流入に果たした役割は極めて大きいものがあった。


 触発という言葉があるが、同じ人間でありながら、異なる言語や宗教、習慣の存在する異文化圏に触れるということは人間及び人類を進歩させるためには、いつの時代にも必要なことである。


 文化は高いものから低いものへと流れていくことを考えると、異文化圏に触れることを繰り返しながら人類全体の進歩が達成されるのだ。


 桟橋には、出迎えの役人だけでなく大勢の人々が集まって、三十年ぶりにやって来る日本の遣唐使船の到着を今か今かと待ち侘びている。


 もちろん、長久やシャディの一行も間に合っている。


 三十年間の遣唐使や留学僧、また、日本からの品物を安く買い叩いて高く売って一儲けしようと考える商人たちもいる。


「何か貰えるらしいって話だ……」


 あわい期待で集まった乞食たちから、ばか騒ぎが好きな子供たち、何が何だかよくわからない者たちまでもが集合していた。


「おーっ!来た来た!」


「あれに違いない!」


 船の雄姿が誰の眼にも映る。


 桟橋には、喚き声と叫び声、何とも形容しかねる歓声とどよめきの渦が天に向かって巻き上がった。


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