第16話 明珠という娘

「地下道は本当にあった!」


 長久は、暗闇が造る肋骨回廊の上に浮き、稲妻に打たれたように胸をどきつかせた。


「子麻呂の匂わせたことは、これっぱかりも嘘じゃなかった……」


 智蔵も坊主頭をくりくり撫でる。


「貴方は、子麻呂であることを打ち消したが、ひょっとすると、子麻呂とはお知り合いか?」


「元はと言えば、近づいてきたのは子麻呂の方が先だが……」


「子麻呂から貴方に?」


 長久は理由の皮を剥きたい。


「長安に取り残された日本人の集まりに顔を出したことを切っ掛けに、子麻呂と初めて会ったのは、遣唐使が途絶えて十年ほど過ぎた頃だった。。子麻呂は、酷く困った顔を見せていた。話を聞いてみると、帰国を諦めて唐人の妻と家庭を持ったが、妻方の親兄弟ときたら、揃いも揃ってやくざ者ばかり。子麻呂が金を持っていることを嗅ぎつけて家に転がり込んで来ると、毎日、飲めや唄えの大騒ぎで、結局、贅沢の限りを尽くして子麻呂の財産を食い潰してしまったそうだ」


「そりゃ可哀そうに、俺なら、そういうハイエナみたいなやつらが親戚にいたら泳いでだって日本に帰るな」


 快斗が憤怒で髪を逆立てた。


「挙句の果てに、金を取り戻そうと闘鶏場に入り浸りになったが、返ってすっかり擦ってしまって、一段と借金を背負い込んでしまう有様で、ひっきりなしにやって来る取り立て屋から逃げ回っていると言っていた。何しろ、借金を踏み倒したりしたら腕を切り落とされてしまうからな」


「そんな事情を抱えた人だったのですか……」


 長久も話に驚いて瞼を閉じる暇もない。


「だが、そんな乱脈な暮らしの裏で、遣唐使としてのれっきとした任務を片時も忘れ溶かすことはなかった。七つの星の秘密を解き明かし、武后に奪われた一枚を除いては、ことごとく、子麻呂が探し出して手元に隠していた。そればかりか、十数枚にもわたる宮殿や役所の図面を記した図板や、長安の坊や街並みを描いた紙片までも手に入れていたのだ」


「仕事は優秀にできる人だったのね……」


 都真子はことのほか気の毒になった。


「そんな訳で、子麻呂は私を頼みの綱にした。当然のことながら、長安の秘密を記した図板など持っていることを密告されたら、即刻、処刑される。子麻呂は、危ない橋を渡っていることから、手っ取り早く逃れるために、手に入れた資料を私に買って貰いたいと持ちかけて来た。それを藤原不比等様に届ければ、どっさり金を貰えるはずだとね……」


「それでどうしたんですか?買ったんですか?」


 傑が気になって問いかける。


「ああ、そのくらいの金はあったからな。俺は図板を受け取ると、即刻、大江赤馬という日本人の商人に頼んで密かに工芸品や仏像に隠して不比等様のもとへ送ろうとしたが、その時ことは起きた」


「大江赤間か……どこかで名前は耳にしたことがある!」


「と言うのは、子麻呂は張という唐人を雇っていて、そいつは息継竹を使った潜水の名人だ。一度潜ったら見つけるまでは一時だって出てこない。おかげで、宇文愷が隠した図板を手にすることができたのだが、華陽池で図板が見つかると、警備は厳重を極めたから、とうとう張は監視女人の池浚い網に引っかかってしまった。張は即刻、厳しい拷問を受けた。すると、子麻呂も逮捕された。張が喋ったのだろう。私は、そういう結末も覚悟していたから、素性を隠すために智蔵と名前を変えて大慈恩寺に逃げ込んだのだ」


「それじゃ、子麻呂はどうなったのですか?」


「あれっきり、拷問で死んだのか、あるいは放免になったのか私も分らない。おまけに、大江赤馬も行方知れずになり、図板がどうなってしまったのか、さっぱりだ……だが、貴方がその一枚を手にしたのだから、不比等様の元へは、上手いこと届いていない訳だな。言うなれば、赤馬を見つけ出さない限り、図板の行方は分からないということだ」


「大江赤馬か……子麻呂ではなかったのか……」


 今の長久は、転がした賽の目によって、双六の振り出しに引き戻された気分だ。


「前方が薄明るい!誰かが灯をともしているんだ!」


 俊介は、ほかならぬ、その灯かりのおかげで、他の地下道と合流していることが知った。


「人の足音が響いてくる!灯りを消せ!」


 慎太が慌てて大息で吹き消すと、皆、しゃがんで前方の薄明りに視線を釘付けにした。


「お急ぎください!もうすぐ出口でございます!」


 ざくざくと足音を立て、数名の兵士と平服をまとった男女、威勢だけは健在の一人の老婆が屈強な兵士の背中に背負われている。


「お前たちは何者だ!」


 兵士の一人が、気がついて先頭にいた長久を捕まえた。


「逃げると、この者の命はないぞ!」


 兵士は押さえつけた長久の首に剣を当てる。


「まずい!逃げたら長久が殺される!ここは名乗り出よう!」


「なぜ、お前たちはここにいるのだ?理由の如何ではただでは済まんぞ!」


 兵士が凄みのある口調で脅して来た。


「おや?お前は曲江池で私を救った日本人ではないか?それに、その隣は大魚を捕まえた男だ!」


 記憶力の優れた老婆は俊介と慎太を覚えていたのだ。


「武、武后だ……」


 俊介も慎太も度肝を抜かれた。


「突厥に追われて偶然に延興門から入ったのでございます!」


 智蔵が咄嗟に釈明する。


「この者たちは敵ではない!味方は少しでも多い方がよかろう!一緒に連れて行け!」


 武后の鶴の一声で俊介たちは命拾いをした。


 宮殿を襲われて地下道を逃げて来た武后は、春明門から出たところにある厩舎から馬や馬車で長安を脱出するつもりだ。


 やがて、春明門の真下に着くと長久が進言する。


「私の方が怪しまれない!地上に上がって様子を見て来ます!」


 やにわに地上に顔を出した長久は目を丸くした。


「これは思わぬ場に出くわしたぞ!女が矢を放っている!」


 三人の唐兵と激しく戦っている突厥の娘をひたと見つめると、なぜか娘が不利にならないか心配する自分を不思議に感じた。


「ぎゃっ!」


 娘の矢が唐兵の一人を倒したが、次の瞬間、もう一人が斬馬剣で娘の弓を真っ二つに斬ると娘は馬からころげ落ち、唐兵はとどめを刺そうとした。


「危ない!」


 長久は、思わず飛び出すと、手に掴んでいた棒で後頭部を殴りつけたので唐兵は気絶してしまった。


「味方なのか?」


 娘は、長久が何者かは知るよしもない。


 すると、長久は後方の唐兵の斬馬剣に襲われた。


 斬馬剣の剣先が長久の右脚を払うと、さらに二の手の剣が振り上げられたが、娘がすかさず胴巻きを剣で突き刺した。


 娘は、長久の血を噴く脚に布を縛りつけ止血すると、長久を担ぎ上げて馬に乗せ、まだ呻いている唐兵を馬で踏み倒して城外に走り去って行った。


「どうしたのだろう?長久がもどってこない!上がって見て来る!」


 俊介は、やきもきして地上に駆け上がったが、そこには二人の唐兵が倒れているだけで、長久はおろか誰も見当たらない。


「上には味方の唐兵が倒れているが、他には誰もいない!長久は消えてしまった!」


「よし!武后様、行きましょう!厩舎までわずかです!」


 唐兵が先頭を切って地上へ出ると、一行はまっしぐらに厩舎へ向かった。


「いったい、長久はどこへ行ったんだ?」


 智蔵も心配したが長久の姿は、すっかりかき消されている。


「敵だ!敵がいる!だが、味方もいるぞ!」


 こともあろうに、厩舎では、唐の馬を手当たり次第に奪おうとする突厥の騎馬部隊と、斬馬剣を宙に振り回す唐兵とがそこかしこで戦っていたのだが、そんなこととはつゆも知らない武后たちは、たちまち戦闘に巻き込まれた。


 俊介たちは、幾筋もの矢が頭上を飛び交う中をくぐり抜けて、泡を食って建物の陰に身を隠したが、気づくと突厥の部隊にぐるりと囲まれていた。


「武器は持っていないようだ!捕虜として連れて行け!」


 全員、身体を縛られて大きな荷馬車に放り込まれると、武后は憤怒で堪忍袋の緒を切らした。


「下郎!私をいったい誰だと……」


 武后が身体を容赦なく縄で縛りつけた突厥の男に向かって、啖呵を切りそうになったので臣下の張昌宗があわてて止めた。


「我慢をなさってください!ここで武后様とわかったならば命はありません!どうかご辛抱なさってください!」


「うううっ……呪い殺してやる……」


 武后は腹の中が煮えくり返るほど悔しがった。


「退却の命令を出せ!引き揚げだ!」


 苒徳が退却を甲高い声で指示すると、突厥の各部隊は、戦利品としての食料や馬、捕虜を手にして、脇目も振らず、けたたましい勢いで引き上げた。


 長久を乗せた馬は疾風のように駆け抜けていた。


 騎手は、明珠と言う名前の高句麗族出身の娘である。


 明珠は、唐と新羅の連合軍の攻撃により、家族もろとも捕虜として連れさられた。


「隙を見て逃げ出そう!」


 明珠は、途中、恋人の若者といっしょに脱走したが、連合軍にしつこく追われる途中で、不運にも若者は流れ矢に当たり、命を落としてしまったのだ。


「必ず、復讐してやる!」


 明珠は、命からがら、突厥の領内に逃げ込むと、唐と戦う苒徳の部族の一員となるや、戦闘の訓練を受けて戦士となり、女ながらに戦功をあげて苒徳の妻の護衛にも選ばれるほどに成長した。


 そんな明珠にとって、端正な顔つきの長久は、どことなく死に別れた恋人の面影を一遍に蘇らせた。


「ここは何処だ?ううっ……」


 目を覚ました長久は右脚の堪えがたい痛みに顔を歪めた。


「お前は日本人か?」


 ぎょっとした長久の目の前に、颯爽とした男が立っている。

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