第11話 長安城の雑踏

「いったい、何の騒ぎだ?密告とか、拷問とか言っていたが……」


 長久は苦木の葉を噛んだように顔を歪める。


「告密のせいだ!都は洛陽に移っているが、この長安にも銅製の密告箱が置いてあって、武后は自分に嚙みつく者を密告によって炙り出し処刑するのを楽しみにしているわけだ。噂によると、役人が上の位を狙って告密に舌を動かしているらしいな」


「こくみつね……汚い手を使っているな」


「おまけに、取り締まりに精を出しているのが、番犬のように尻尾を振って女帝に忠誠を誓う酷吏というならず者たちだ」


「道理でそうか!さっきも捕まえる方が与太者に見えたのはその所為か……ならず者にまともな仕事ができるわけがない!まったく迷惑な制度だな……おちおち、陰口も叩けないってわけだ!」


 慎太も悪臭ふんぷんたる制度に鼻が詰まらせる。


「則天武后って人民には恐怖の雨を降らして自分は濡れないようにしていたのね!」


 都真子が武后批判を滑らすと、傑の顔から秒速で血の気が引き、きょろりと辺りを見回した。


「おい、誰かに聞かれたら大変だ!俺たちまで告密の餌食になる!さあ、食事にしよう!何にする?凄い!饂飩や餃子まであるじゃないか!」


 告密の件もあって、沈黙の晩餐のように黙々と腹拵えを終えると、長久が東市場の案内を買って出る。


 店から市場までは目と鼻の先だ。


 だが、市場の雑踏に足を踏み入れた途端、俊介は鼻の奥と喉に一撃を食らった。


 何しろ、行き交う無数の人々の足裏が乾いた白い土埃を舞い上げ、さらに空から降る砂塵と混じり合って浮遊して漂い呼吸するたびに肺を襲い、露店に顔を並べるあらゆる品物を白塵で覆う。


 これが長安なのだ。


「此処はまるで中国じゃないみたいだろ。俺の見立てだと、太く黒い眉に黒い瞳、黒い髭はアラビア人、アラビア人を色白にしたのがペルシャ人、切れ長の目に小顔はトルコ人だ」


 長久の分類図鑑を目当てに都真子がすれ違う男の顔に目を凝らす。

 

「駄目だわ、すぐには分からないわ……」


「此処の店の数は凄い!俺も初めて来た日には目玉が脳天から足先まで行ったり来たりだった。そればかりか、店に生首を突っ込むと、目にも鮮やかな珊瑚や瑠璃、そしてヒスイや真珠を散りばめた細工品、牛も滑って転びそうなつるつるの絹製品、子どもがすっぽり入る白磁青磁、王の気分を味わえるペルシャ絨毯や銀製品などがいきなり目に入ってきて、危うく帰るのを忘れるくらいだったな!」


 見るもの聞くもの全て物珍しく傑には驚愕ラッパの吹きっ放しだ。


「何と行き交う人間の雑多なことだろう!衣装の派手さはショー並だ!曲芸を披露する大道芸人、坊主頭の僧侶、馬を売る商売人から芸妓まであらゆる職業人や、建ち並ぶ寺院から大邸宅まで揚州とは比べものにならないぞ!さすがに、数百年も前からの都だ!」

 

 だが慎太の巨体だけは市場の注目を浴びている。


 すると快斗が調子に乗ってお経を唱え始める。


「あれが薬屋、あれが食堂、あれが宿屋、あれが……香辛料を売る店、家畜を売る店、酒屋、パン屋、楽器屋、宝石屋、衣服店、食器屋……もう止めた!きりがないぞ!」


「俺はその時、こうした品物を創り出す異国とは、さぞかし、進んだ場所に違いない!何が何でも異国に行ってみたい!知らないものと出会うことは居ても立ってもいられない!と魂の底が震えるのを感じたよ!」


 長久のロマンを求める心から湯気が上がる。


「駱駝に跨って、見たこともない無数の山や砂漠、魑魅魍魎が棲む森林を通り抜けることができれば珍しい産物で溢れる異国が待っている。俺は其処との取り引きを成功させて、ゆくゆくは、異国の王様のように宮殿みたいな家を建てて、山ほどの召し使いに傅かれて暮らすことが夢だ」


「何処からそんな突拍子もない考えが宿ったの?」


「こうした夢を懐くようになった理由か?そりゃ、父から大陸に広がる異国の話をちょくちょく聞かされたからだ。特に、仲間と交易船を手に入れて、唐との密かな交易に乗り出すことを考えたのも父の話が元になっている」


「やっぱり、親父さんの影響ってのは大きいよ。俺だって、幼い頃から一芸に秀でるようにって仕向けてくれたのは親父だからな」

 

 慎太が胸を反らす。


「正直なところ、異国の橋を渡るという考えは、祖父の尽力で席を得た役人の地位を、すんなりと放り出してまでやってみる値打ちがあるかどうかは何度も考えた。万が一、失敗した挙句、異郷の地で命を落せば取り返しがつかないからな」


「そうよ。危険なことばかりよ」


 都真子は向こう見ずな長久の考えに釘を刺した。


「母親や妹には何と打ち明けたらいいのか?兄のことは諦めてくれというのか?夜寝もできず悩んだよ。だから、脚に重りを付けた鷹が翼をばたつかせても飛べない辛さで、矢も楯も堪らない気持ちになっていたところを、交易がばれたおかげで、嫌でもこうして長安に来る羽目になったわけだけど……来たのは大正解……」


「おい、処刑だ!処刑だ!」


 横切ろうと大路に出たとたん、長久の目には、縄で縛られて顔を朱に染めて座っている男を黒山の人だかりが取り囲んでいる姿が飛び込んだ。


 額は広いが、形の良い二重瞼が切れ込み、その下に太い葱のように高くて白い鼻を突き出す男が椅子に腰かけて踏ん反り返る役人に話しかけてる。


「私は薛来興と言いますが、この馬鹿者は、武后様を侮辱する文字で満たしたこの旗をぶら下げて、宮城に向かおうとしていたのでひっ捕まえました!」


 旗に記された黒々とした文字を一目見た役人はかんかんに怒って立ち上がると、男の頭頂から怒鳴りつけて、瓜のような頭を殴りつけた。


「武后様に向かって出ていけだと!命知らずの奴め!普段は、洛陽においでになる武后様が、二十年ぶりに長安に行幸して下さったというのに、何という無礼者だ!」


 男は殴られると、前のめりに地面に顔を叩きつけ白い土を血に染まる口で食んだ。


「俺の名前は李安道だ。武后は自らが命を奪った者たちの亡霊を恐れたからか、さっさと長安を捨てて洛陽の宮殿に移り住み、血生臭い空気を持ち去ってくれたのは実に有難かったよ。だが、洛陽に移っても、自らの一族を高い位につけ、皇帝様につながる者たちを殺し、告密を流行らせて、酷吏という与太者に罪のない者の命を奪せた。こんな非道ばかりが罷り通ってよいのか!」


「あんなこと言って大丈夫なのか?」


 周りで耳を傾けている人たちまで蒼くなる。


 薛来興は、蝋人形のような皮膚を震わせ、彼の恐ろしい女帝を褒めちぎった。


「そんなことはない。悪いのは武后様ではない。周りにいる血の繋がった武氏一族だ。武后様の立場を利用して立身出世の手段にしたのだ。それゆえ、武后様は、自分を犠牲にしてまで亡き太宗様の教えを守ろうとしているだけだ」


 李安道は目くじらを立てて反論する。


「何を言っているのだ!あの女は、これまでも、幾度となく人の道に外れた行いを繰り返してきたんだぞ!数え上げればきりがない。夫である太宗が亡くなり、太宗の息子が高宗として皇帝の座に就くと、すでに帯していた妃を押しのけて、その高宗と結婚するなど人間のやることか!」


「貴様!武后様に向かって、あの女とはなんだ!」


 役人は、血相を変えて、また李を殴りつけたが、李は毒々しい口調を止めず重ねて武后の悪口を並べ立てた。


「彼女の同性に対する仕打ちはどうだ。一度、敵にした相手には、嫉妬や憎しみが血のように噴き出て、武后から憎まれた前皇后は手足を切断されて酒を満たした甕に漬けられたんだぞ。他にも同様な責めを受けた女性が言ったではないか『武后よ、次世は、鼠と生まれよ!我、猫と生まれ汝を食らわん!』とな。武后は自らの毒に酔いしれているうちはよいかもしれぬが、いずれ、確実に毒が回って死が待っているのに決まってる!」


「もう、許せん!武后様の死を願うとは!即刻、殴り殺してしまえ!」 


 堪忍袋の緒を切らした役人の怒りは頂点を通過した。


 薛来興は、武后の無実を白昼堂々知らしめるために、もう一言、言わせてほしいと役人に訴える。


「武后様の行いは、あえて女性的に考えるならば、煮たり焼いたりの料理の世界である。嫉妬や恐怖を与えた敵への対抗手段は、食材を切り刻む料理と何ら変わるところはなく、これもまた食うか食われるかの話だから、女性の世界ではよくあることなのだ。しかし、武后様はこのような殺生をやるために皇帝様になったのではないのです。もちろん、ご政道を糾すためにやむを得なかったのですよ」


 長久の通訳を耳にした都真子は腹立たしくなって呟いた。


「ちょっと、何言ってるのあいつ!ひどい女性蔑視だわ!第一、女性だけに限る話じゃないわ。残酷な権力者って、一人一人を自分の手で絞め殺すわけじゃないでしょ。一度も会ったことがない相手だって、殺せって大臣に命令し、大臣は官僚に命令し、官僚は官吏に命令するわけでしょ。しかも、殺される側は、反抗できないようにされて殺されるから殺人はさらに簡単よ」


 薛来興は自らの弁舌に酔ったかのように話を続ける。


「何しろ、もともと生まれも育ちも庶民に近い武后様は位が上がっていくと、誰よりも孤独と戦ったことでしょう。男兄弟の中で日陰の身で育ち、誰とも打ち解けることなく、ただただ、自らを利用されても、親族だけには心を許しました。おまけに、その親族からも裏切られながらも、気丈に振る舞っていました。わが国では、こうして低い位からはい上がった者が、かねがね、覇者として権力を手に入れ、治乱興亡に打ち勝ってこの国を発展させてきたのです」


 薛来興に言い負かされた李は、いくら言ったところで無駄と思い、もう口を閉じてしまった。


「お前はなかなか武后様への忠誠心が強いやつだ!」


「私は、かつての武后様の気に入りの側近、薛懐義様の弟子であります」


 薛来興は、実際のところ、薛懐義とは縁も所縁もない。


 こうして武后をおとしめる者を、得意な弁舌によって打ち負かすことによって名を挙げ、薛懐義のように宮廷に取り入ることができればと考えている男で、ましてや、都の周りにはこのような胡散臭い男が、ことのほか、屯していたのである。


 翌日、撲殺された李安道の惨めな死体が、長安の道端に転がっていたのは、当然の結末であった。


 東市から長安の南西まで、人通りも減る中、一時間ほどの道のりを歩いて、やっと、長久の棲み処に着いた。


 其処は高い屋根の聳える大邸宅だった。


「凄い家だな!さぞかし、成功をおさめた者の家に違いない!」

 

 慎太が躍り上がるように言った。

 

 そこへ家の中から、ふいに一人の男が現れると、皆、目を丸くして驚いた。


「あっ!まさか!あなたは……」


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