第10話 武后との対面
曲江池に遊びに来ていた誰もが、武后に出くわして目付きが悪いと目玉でもくり抜かれたり、もたもたしていると両足を絶ち切られたりしたのでは命が幾つあっても足りないと蒼ざめた。
池を飾る赤い牡丹までが、武后が来ると蝶や蜂から聞いて、うっかり花弁を散らして引っこ抜かれないように根っ子を踏ん張っている。
「ぐずぐずするな!さっさと池から離れて奥へ引っ込め!」
役人たちは責任の針を突き立てられないように、杖にしがみ付いて歩く老人から鼻水を垂らした子供まで片っ端から足蹴にして追っ払うと、もう二百人ほどの人間蟻の隊列が練り歩きながら近づいて来ている。
「武后の顔を絶対拝んでみたい!」
傑は心臓からの血が逆流して頭がくらくらしているが、その一方で歴史上の大魔王をどうしても目にしたい。
やがて後方から、金銀の金具で装飾された庇付きの輿が牛のような力自慢に担がれて現れると、正面に建つ朱塗柱の建物に向かって大行進だ。
「座しているのが武后に違いない!怪しい妖気で輿が倍の大きさに見えるな!」
快斗は、目をぱちくりさせ舌先を震わせて喋ると都真子も反応する。
「それにしても、武后の顔と来たら頬紅や真っ赤な口紅をふんだんに使って、おまけに髪につけてる花冠や櫛や簪も凄い数ね。着物も紅色を下地に金糸銀糸の刺繍のある花鳥柄の羽織よ。一言で言えば百花繚乱、絢爛豪華な装いの下に、血塗られた白い牙を隠しているってわけよね。背筋がぞっと冷たくなるわ!」
「都真子も吐きたい放題だな。役人たちには日本語だから分かりはしないけどな……」
蛇列は、池に突き出すように建築された楼閣の前で停止すると、真っ赤な糸で織られた絨毯が茶色い地面に敷かれた。
「あの楼閣の名は紫雲楼だ。夜になって燈籠に火が灯されると静寂だった池が生き返り、その光が反射して長安の夜空を七色に照らすのさ。すると、その美しさに魅かれて千客万来の賑わいが始まって長安はさらに繁栄する。どうだい、今度の新しい日本の都にもこんな池と楼閣があったら、さぞかし夢のある都になるのにな……」
長久は曲江池や紫雲楼のことはとっくに父から仕入れていて、こうした長安の姿を日本の都にも求めていた。
「それに長安から西は、山や川が砂利と砂、そして死んだ動物の骨粒でできていると聞くが、そこにだってオアシスという水辺があるそうだ。砂の真ん中にだって水は湧き出るのさ。乾いた陸の人たちの心も池や湖があれば潤うと言うものだ。だから、俺の夢見る都には曲江池のような水辺があって、其処を通じて人々の心が結ばれるような都造りが条件だ!」
貴族の池遊びのために庶民が血を流して池を造る時代───長久の覗く望遠鏡には何が見えているのだろう……
俊介は長久の発想に驚く。
「日本の都は難波の時もあれば飛鳥の時もあった。新しい天皇が即位すると、血液を入れ替えるように新しい都造りが始まるから、せっかく造った池も水を抜かれてただの器になるのか……」
「ああ、古い都は前の天子様の墓場と同じだからな。勝手な雲が湧いて古い土くれを流す……だが、新しい都を造るのは貴族じゃない。猪を追う如きに駆り出された男たちだ。万が一、何処かで歯車が狂えば、残された家族は奈落の井戸に急降下だ」
長久は憤る。
「それなのに、また新しい都造りの話だ。もう飽き飽きするよ。今の藤原の都だって大極殿から役所まで完成まで四年もかかっったが、結局、出来上がった都は俺たちとは別の世界だ。俺は、都ってのはその国の鏡のような場所だと思っている!天子様と民百姓が楽しく一緒に暮らすような姿が映ってこそ、良い政ができるってものじゃないのか……」
「見ろよ!武后は妖術使いか?急に真っ黒な数の魚が水面を飛び跳ねている!」
快斗が喉奥を見せて叫んだ。
何しろ、輿を降りた武后が、血の川のような絨毯の上を歩いて二層に上がり、碧色の池を覗き込むやいなやの出来事だ。
傑は即座にからくりを見破った。
「よく見ろ!武后からは見えない場所から、役人たちが四方八方から餌を投げまくっているだけだ!」
武后は甲高い笑い声を上げて満足げに口を開いた。
「ハハハハッ、活きの良い魚どもじゃ!向こうで見ている男どもを呼び集めて、池に飛び込ませよ!一番大きい魚を獲った者には褒美を出すぞよ!」
武后の馬鹿々々しい命令を耳奥に響かせた役人が、目を吊り上げて俊介たちの前に走って来ると、蝦蟇のような口から大声で言った。
「おい、男ども!武后様のご命令だ!池に飛び込んで魚を獲って来い!一番の大物を獲った奴には褒美が出るぞ!」
「何てことをさせるんだ……」
長久は怒息を吐いたが、恐ろしい女帝の命令には服従しかない。
「やるしかないか……」
目玉の先に餌の塊しか映らない魚たちが、尾鰭や胸鰭でど突き合って食べているところに、蛸のようになった男たちが水飛沫を上げて飛び込んだ。
「馬鹿にするなよ!魚のくせに!」
女帝と言えば、魚におちょくられてへどもどする男たちの姿を見て腹を抱えて笑い転げている。
遂には、人も魚も殴り合いだ。
やがて銘々が、波打って暴れる鯉の尻尾を両手で絞ったり片々する鮒の鰓に指を入れたりして獲った獲物を下げて岸に上がって来ると、こともあろうに、慎太が馬乗りになって獲った鯉が並はずれて大きい。
「危ない!」
誰も油断していた瞬間、池から上がった美丈夫が、河豚づらの警護兵の弓矢を力づくで奪い取り武后の心臓目掛けて矢を射ようとしたのだ。
偶然にも男の真横にいた俊介の腕が火花のように動く。
丘に上がって目を剥いている鯉を矢先に突き出すやいなや、矢は重い鯉を串刺しにしたまま朱柱を深く抉った。
「この野郎!」
慌てた警備兵たちが山となって覆い被さると、這い蹲った男は顔だけ上げて刃物のような目で武后を睨み付ける。
「誰の差し金じゃ!その美しい顔の皮を剥いででも吐かせるぞよ!」
武后は、男が美丈夫なのを見て血も凍る眼光をやや溶かしていると、男は奥歯を噛み鳴らして名乗りを上げた。
「我こそは、魏元忠の長子、魏士元である。お主のために流罪となった父の仇討ちじゃ!」
「おお、魏元中の息子か!そなたの父の命根だけは断たずに助けてやったものの恩を仇で返すとはの……即刻、此処で首を斬り落とせ!酒の肴にしてくれるわ!」
「お待ち下さい!私はこの者の命乞いをする訳ではありませんが、武后様の慈悲を勘違いする愚か者のために、せっかくの行幸を醜い晒し首で汚すのも恐れ多いことです。処刑は刑場にて牛に裂かせ池詣でを楽しみましょう」
武后の寵臣、張易之が小利口そうな顔で口を挟む。
「それもそうじゃの……」
女帝が、呆気なく魏士元の処刑を放り投げたのを目にした都真子は、眼前での斬首刑を目撃せずに済んで安堵の風船を膨らませる。
「矢を防いだ男と大魚を獲った男は誰じゃ、前に出よ!褒美を取らす!」
武后は涼しい顔に戻っている。
二層の舞台から妖気を漂わす武后と目を合わた俊介は、女帝の目の奥に広がる暗黒星雲を感じ取っていたが、一方の慎太は毒蛇に睨まれたひき蛙のように身じろぎもしない代わりに心臓の太鼓をどんどこ打ち鳴らしている。
「お前たちは倭人だな?」
二人の貫頭衣をじっと見ていた通訳のできる宦官が、しゃしゃり出て俊介に尋ねると武后も珍しがった。
「長安で何をしておる?」
「商いをしております」
「長安は自由な町だからの。倭国ならば使節の来朝を許したばかりだ。早速、倭の者に命を救われるとは、その印が現れたのかもしれぬな」
褒美として貨幣のぎっしり入った袋を渡されると、恭しくお辞儀をして引き下がった。
「寿命が縮むとは、まさにこういうことを言うんだな……」
慎太の顔色は蒼白い紙のようだ。
宴の幕が開くと、武后は様々な樹の実から作った酒には手を付けず、西域からもたらされた葡萄酒を好んで飲み、さらにラクダのスープを啜り、松の実をまぶしたから揚げや餃子、アワビ、ナマコ、トマト、ライチなどを歳の割によく食べた。
宴も酣になると雅楽の演奏の他にぺルシャやトルコの踊りまで舞われ、こうして誰憚るところなく大騒ぎをしたあと、何食わぬ顔で宮城に帰って行ったのである。
「さっき貰った褒美で腹拵えをしないか?」
慎太が食堂のいい匂いに誘われて口走ると快斗も賛成した。
「俺も腹が減って死にそうだ!どの店がいいかな?」
長久は言う。
「長安は、碁盤目状に百以上の区画に別れていて、その中に二つの市場がある。俺も全部は知らないが、そこにある店の数は、多分、数万軒に上るって話だ」
「それじゃ、長久に任せよう!」
長久が選んだ店に入ると先客が一組居る。
下級役人のような男が三人、慌てふためき額を突き合わせている。
「まずい!昨日の話を密告箱に投げ込まれたらしい!」
「何の件だ!」
「俺たちが酔っぱらって、皇太子の子供の李重潤が武后から毒を飲むように言われたのは罰としちゃ重すぎると言っただろう!その話を盗み聞きされて告げ口されたんだよ。話の内容からすりゃ、あきらかに武后への反逆と取らえられるんだよ!」
「こりゃ、逃げるしかないぞ!酷吏に捕まって拷問されたら、否が応でも罪人にされちまうそうだ!」
「拷問されるのか?」
「ああ、そうだ!頭に鉄の輪をかぶせられ割れるまでしぼられるとか、、甕に入れられて下から火で焼かれるとか、首を板でしめて、さらに瓦を何枚ものせられるとかだってよ!」
「そりゃ、恐ろしいな!聞きたくもねえや!」
「お前らだな!けしからんことを言ってるのは!」
突如として、たちの悪いことで有名な酷吏と呼ばれる役人が乱入してくると、三人の男と店内で大乱闘をおっぱじめた。
「なんだ!いきなり!」
俊介たちは端によけて見ているしかなかった。
三人の男たちは、にっちもさっちも行かなくなって、店の外へ飛び出すと、外に待ち構えていた別の酷吏によって、逃げる間もなく全員が捕縛されてしまった。
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