第8話 残党狩り

 俊介は、峡谷を風が吹き抜ける恐ろしい唸り声を耳にすると、それに呼応するかのように真っ赤な炎が、草木と人間が体内に蓄えた油を燃料にして獣のように大地を蹴って追いかけて来るのを目にした。


 まるでこの戦場全体が溶鉱炉の顔をして負けて逃げる者を丸焼きにしようとしている。


「川や湖水の水は炎の熱で盛んに天に昇るのなら、もう一度、雨となって降り注がないものか……それにしても、俺たちは部隊の一番外側の足の裏のような場所に居たからまだ運がいい!敵と睫が触れる前線に居たら逃げ場は無かったな!灰になった仲間の血肉と油を一緒に連れて行ってやりたいところだが、俺たちも灰になってしまう!もっと走れ!」


 長辰の喉の奥は熱と煙で焦げて、針で刺したような激痛を起こす。


「鎧が重くて邪魔よ!こんなのもう要らないわ!」


 都真子が文句をつけて脱ぎ捨てた。


「三十六計、逃げるに如かずだ!逃げることだけに集中しよう!向こうの茂みは火の手が弱い!逃げ込もう!」


 俊介が見つけた樹木の壁を突き抜けると、誰もがその先で、ばったり立ち止まって木の枝にしがみ付いた。


「押すな!危ない!」


 茂みの先端には炎は無いが、ぎょっとする大滝が流れ落ちている。


「滝壺までは高くはない!」


 長辰が真っ先に飛び下りた。


「嘘だろう……高いよ、まるでビルの屋上だ!」


 快斗が腹を括って長辰の後に続くと、その後も続々とムササビ人間が宙を舞って崖下の分厚い碧い水の層に、幾つもの真っ白な飛沫を上げる。


 岸に這い上がって見上げた俊介は、都の兵士たちが崖上から顔を出すのが見えたが、その高さに怯えたのか追って来る兵は誰もいない。


「この先も地形が険しいから見つからずに逃げるのには打ってつけだが、都の軍から見れば俺たちは謀反人だし、万が一反乱軍が勝っても脱走兵だ!どちらにしたって、捕まったら終わりだ!揚州は、反乱軍が旗揚げした場所だから、残党狩りに遭うのは間違いないな……」


「しっ!誰か来る!頭を伏せろ!」


 大きな岩の陰に息を殺して身を潜めると、騎馬に乗った都の兵士が目と鼻の先で止まるのが目に入る。


「人の気配がしたのだが……気のせいかもしれないが調べてみるか?」


 たちまち、雷に打たれたような緊張が走った。


「馬鹿を言え!俺たちの目当ては妻子と一緒に逃げている李敬業だ!落ちて来た雑魚にかかずらってる暇はない!ここで、捕まえ損なってみろ、ただじゃ済まされん!」


「その通りだ!ぐずぐずしてると逃げられちまう!先を越されて、見す見す手柄を横取りされて堪るか!」


 だしぬけに一騎が土煙を上げて駆け出すと、他の二騎も鞭が馬尻を撃ち一斉に後を追う。


「助かった……馬が走るなら、その先は道だ!だが、驚いたな……李上将が逃げていると口にしていた!つまり……反乱は失敗だ!ならば、揚州の土地や商売の権利も水の泡だな……済まん、無駄骨になってしまったようだ……」


 長辰は苦い唾を吐くと唐人の王に尋ねた。


「追っ手の裏をかいて逃げる道はないか?」


「安全なのは山奥へ逃れることよ。でも、食べ物やその先の逃げ場が無いことが問題ね。だったら、船に戻って海に逃げる方がずっと賢いことよ」


「慣れない山岳地帯に入り込んだら、野垂れ死にが関の山ってことか……揚州に向かえば、都の兵士が手揉みして待っているからその懐に飛び込むことになる……同じ死ぬなら捕まることを覚悟して船に辿り着く方がましだな!」


「此処から揚州へは遠くないことよ。遠回りのことあるが、運河を渡って東に迂回してから揚州に向かうなら平地が多いから行き易いのことよ」


 王の提案は長辰の心の太い脈を早める。


「きっと、船が俺たちを待ってますよ!」


 快斗が止めの花火を打ち上げた。


「よし、揚州に戻ろう!おおっ、あんなに吹き荒れた風が止んで青空が顔を覗かせている!里市!確か……お前は方角を読むのが得意だったな!東の方角が判るか?」


「任せて下さい!星さえ見えれば何処へだって行けます。俺の目には昼間だって星が見えますからね!」


 里市は額と眼玉を天空に向けてくるりと一巡りさせると、その眼の奥には誰にも見えない星が輝いた。


「さあっ、こっちです!」


「凄いな!俺には真っ青な空しか見えないけどな……」


 慎太は目力を込めて青空の奥の奥を見つめている。


 こうなると誰もが全身を目にし耳にして四方八方を警戒して進むと、やがて、夏草が帯のように広がる土手の向こうに運河の水音が跳ねているのが分かった。


「さすが、里市の眼は千里を飛ぶ蝗虫のようだな!」


 運河に駆け寄って都真子が覗き込むと、矢が突き立った背中の塊や、血に染まって真っ赤な兵服から飛び出る腕、黒焦げになった兵士の頭頂などが無残な姿を晒して流れて来る。


「死んでるよね……何もできないけどね……」


「運河の幅は、見たところでは四十尺くらいか……素潜りでも行けそうだ。此処から渡ろう!」


 長辰は首まで水に浸し流勢を五体で試していると、突然、上流から岩が落ちたような怒声が反射する。


「あれだ、あれだ!あの船だ!逃げた敬業の船に違いない!取り囲んで生け捕りにしろ!」


 異常に気が付いた長辰は慌てて水中にどっぷり身を沈め、草叢にいた俊介たちも蒼くなって草深く潜った。


 水上では屋形を取り付けた平たい船から数人の兵士が矢を乱射し、命中を食らった兵士が飛沫を上げて運河に落ちるのが目に入る。


「弩も使って蜂の巣にしてしまえ!」


 弩を使った弾丸のような威力の矢は、逃げる船の板を割り裂き、穴だらけにしているが、頑丈な盾で漕ぎ手を守り、船は一向に沈む気配はない。


 さらに、上流からは追っ手の船が続々とやって来て矢を放つが、どれだけ荒ら船となってもしぶとく浮かび続けて、やがて、すべての船が俊介たちの目の前を通り過ぎた。


「敬業は妻子と共にあの船の中に本当に居たのかな?」


 慎太のこめかみを疑問の血が巡る。


「影武者ってこともあり得るな……何しろ、船の造りが目立ちすぎる。あれじゃ、わざと捕まえて下さいと言っているようなものだ!」


 傑は草叢から首を突き出すと、船団の後姿を見て呟いた。


「今だ!第二、第三の追っ手が姿を見せる前に渡ってしまおう!」


 長辰は肺を目一杯膨らますと潜水を始め、途中、泡ぶく一つ上げずに対岸に濡れ頭を浮かべる。


「どんどん来い!」


 流れる水の壁は胴体ごと押し流そうとするが、腕で掻き足で蹴って、全員が泳ぎ渡った。 


「この先、運河のもっともっと東に迂回するあれば、都の兵士に出くわすことはなく進むことができることあるよ」


 王の自信ある口調が脚の血管を膨らませ、揚州の顔を見たいという希望に引っ張られて歩きに歩く。


「お堂がある!身を隠せるか……森陰に集落も見える……」


 王は行商人に化けて村人から食料を手に入れ、ついでに道を尋ねて来ると言い出した。


「王!危険の弾が爆発するぞ!揚州まであとちょっとじゃないのか……」


 長辰は喉の骨を震わせて猛反対すると、王はかつて役者を目指したほど演技には自信満々だと返し、こんな事もあろうかと戦場で拾った手拭、草履、銭袋などを詰め込んだ紐付きの米袋を背負って、意気揚々とお堂を出て行った。


 やがて、芋や玉蜀黍を両腕にぶら下げて王が戻る。


「凄いな、王!見直したよ!」


 長辰は目尻の皮を引き下げて王を褒めた。


「やっぱり、逃亡船は敬業じゃないのがばれて影武者は斬られたことよ。敬業は、とっくに長江に落ち延びて、自分の天運は尽きていない……此処から海上へ脱出し朝鮮に渡って再起を図ると言ったのこと。ところが、敬業の首を献じて助かろうとした部下に裏切られて、弟の敬猷や妻子共々首を落とされたのことよ。怒りの収まらない武后は、敬業一族の墓を壊し血の繋がりのある者は幼児たりとも一人残らず捜し出して処刑しろと命じたあるよ」


「そうか敬業は運が尽きたな……」


「村には都のお触れが来てるのこと。反乱軍の残党を匿ったり通したりすれば重罪のことね。その一方で、捕まえればご褒美が出るのこと。だから、村の入り口で鎌や鉈を手に見張っているのこと」


「それは危なかったな……そんなこととはつゆも知らず集落に近づいたら殺されるところだった!敵は都の兵士だけじゃない!この先、どこの村にもお触れが回っているに違いない!」 


 長辰は背筋を寒くしたが王が切り出す。


「村人が言うには後一里で長江に出るのこと。出たら川沿いに進めば揚州に着くのことよ!」


「一里なんて目と鼻の先じゃないですか……それなら、こうして皆で動くのは目立ち過ぎます!分散して逃げましょう!」


 長辰は俊介の提案をぐっと呑み込み白い歯を見せた。


「分かった!俺の仲間と俊介の仲間と二手に分かれて逃げよう!くれぐれも、気をつけるんだぞ!よし、そうと決まれば王が手に入れた食料で腹ごしらえだ!暗くなったら動こう!」


 快斗が玉蜀黍をかじっていると木陰から目を三角にした子供たちが覗いている。


「食べたいのか……半分あげようか?」


 子供たちは無言で逃げていく。

 

「子供が残党を見つけた!お堂に残党がいるぞ!」


 子供たちは村の大人に言い付けたのだ。


「しまった……子供と思って油断した!」

 

 




 

 


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