第2話 蘇我氏の末裔
「うーっ……いててて……」
慎太が目を覚ますと、草木の臭いに包まれた薄暗い森の草叢に、自分だけでなく他の四人も倒れているのを発見したが、動くにも身体中の骨という骨、筋肉という筋肉に痛みが走る。
大地に叩きつけられた痛みなのだろうか、それでも、這って行って、最初に都真子と傑を揺り起こすと、目は覚ましたが二人とも眼球だけをぐるぐるさせて辺りを眺め回した後、正気に戻った。
「ああ、背中が痛い!ここは……この森は春日大社の森か?」
「いったい……あの渦巻は……何だったの?まるで狐につままれたようって……こういうこと……」
大の字に倒れている俊介も慎太に肩を揺さぶられていることに気が付いて我に返った。
「慎太か……頭が割れるように痛いな……」
慎太の顔だけでなく、その向こうに見える小さな杉の幹に羽根を広げたTS1の本体が、ぽつんと引っ掛っているのに目を奪われると、痛む手足を動かしてTS1を掴み、異常がないか確かめた。
「もしや、この状況は……ことによると……こいつが原因か……」
最後に慎太は、快斗の頬を平手でぴしゃぴしゃ叩くとたちまち目を覚ました。
「ああ、痛い!身体中が鞭で打たれたように痛い……何がどうなったんだ?」
思考が戻って来た傑は、TS1をいじっている俊介に問いかけた。
「今起きてることは……TS1からなのか……判りそうか……」
「ああ……何度か経験したんだが……TS1を樹齢の古い樹木に当てがった時、凄い力で引き込まれそうになって……それは物理学の世界の話かもしれないが……樹木の体内には違った時間が流れている……つまり……過去や未来と繋がる時間だ……」
「だとすると……タイムスリップか?時間じゃなくて……それとも……場所だけ瞬間移動するテレポーテーションってことか?」
勘のいい傑は可能性を並べて眉を寄せる。
「ああ……おそらくそのどちらかだ……TS1が原因なら……発生当日の日付に設定して操作すれば元に戻れるはずだが……」
「どっちみち、そういった原理のことは後回しよ!まず第一に……此処が何処なのか確かめなくっちゃ……少しずつ身体の痛みが薄れて来たし……」
都真子は、此処が春日大社の中であることを願っている。
「そうだな……もう起き上がれそうか?この森を出ないことにはさっぱり見当がつかないな」
俊介が立ち上がろうとした時、両耳にしんと静まり返った森の空気を一変させる鋭い音が鳴った。
「ヒュッ!ドスッ!」
目と鼻の先の杉の幹に何かが突き刺さっている。
「矢だ!」
「誰かいるのか?出て来い!さもないと、もう一本、矢を打ち込むぞ!」
弓を構えた黒い影が大声で警告した。
「まずいな!このままじゃ、矢の餌食だ!ひと思いに姿を見せて敵意などないことを示した方が良さそうだ!」
俊介は、おそるおそる両手を挙げてもぞもぞと立ち上がると、黒い影は真っ赤なダウンコートとジーンズを身に付けている姿を目にしてぎょっとしたが、その一方で、俊介も、貫頭衣のような衣服に動物の毛皮を被り、弓を構える男の姿に違和感を感じた。
「あの姿を見ると……まぎれもなく……ここは現代じゃない……」
俊介と一緒に立ち上がった都真子もタイムスリップの可能性に衝撃を受けて氷のように蒼ざめ、とたんに全身から力が抜けた。
「お前たちは何処の者だ?」
すかさず、弁の立つ傑が顔面を引き締めて口を開く。
「俺たちは東国から来た旅の者だ!道に迷ってこの森に入ってしまっただけだ!敵ではないから安心しろ!」
男は傑の言葉をそのまま受け取り、ゆっくり弓を降ろした。
「此処にいると巻き添えを食うぞ!俺と一緒に来い!安全な場所へ逃がしてやる!」
「巻き添え……何か危険なことが起きるのか?」
「ヒュッ!ヒュッ!」
傑が聞き返すやいなや、幾筋もの矢が頭上を通り過ぎる。
「だから言わんこっちゃない!」
俊介の目に、黒衣の人間が二人、長い腕が引き絞る湾曲した弓から、長大な針のような矢を射かけて来るのが映った。
「ギャッ!」
だが、貫頭衣の男は、息つく間もなく応戦して一人の太腿を射抜き、さらに連射してもう一人の脹脛を射抜いた。
見事な腕前だ。
「足を射たから追ってこれまい!だが別の追手が来るはずだ!俺は熊井という商売人だ!お前たちも仲間と思われたに違いない……逃げなければ捕まるか矢で射殺されてしまうかだ!俺に付いて来い!」
俊介は、目の前に近づいて来た熊井という男の、まるで剥製のような端正な顔と皮膚をしているのをまじまじと見ると、疑念が収まっていく。
「この人を信用して付いて行くことにしないか?」
傑も熊井の鋭い眼光の奥に知的な輝きを発見する。
「そうしよう!この人の判断には間違いは無さそうだ!」
発達した背骨と後ろ髪を靡かす熊井を先頭に、サラブレッドのような脚の骨と筋肉を持つスポーツ選手の快斗と慎太は、追っ手を警戒しながら最後尾から追いかける。
「あの男、カッコ良かったぞ!だがとんだことになったよな!何で、俺たちまで一緒に逃げないといけないんだ!」
「そんなの知るか!殺されるよりはマシだろう!あとは野となれ、山となれだ!」
慎太は大胆というより開き直るように快斗に返すと俊介も聞いていた。
「悪いな!俺の所為でとんでもないことになったが必ず元の世界に戻れるはずだから心配するな!」
「いいんだよ、こういう時はじたばたしないで成り行きに任せるのが一番だ!」
大男だが気の優しい慎太の寛容さにいつも助けられる俊介は、何はともあれ、TS1での帰還のチャンスに望みを賭けている。
「もうすぐ森が開ける!その先に家が散らばって建つ集落がある!」
熊井は、辺りを警戒しながら他家に比べて堂々とした屋根を持った屋敷に駆け込んだ。
「長久!いるか!」
「おう、熊井か!誰だ……この者たちは?変わった格好をしているな……まさか唐人か?」
出て来た男は、熊井と同様、形の良い頭蓋を艶やかな皮膚で覆った美青年だ。
「いや、坂東からやって来た旅の者だそうだが……とやかく言うのは後回しだ!つい今しがた、追手が二人やって来やがった!二人とも射たが、どのみち、別の追っ手がやって来る。此処らの集落をすべて家探しされるのは間違いない!」
「こっちは笹風が捕まった!あいつは仲間の中でもまだ新参者で老いた母親を抱えた弱みの多い男だ。多分、きつい拷問を食らって根ほり葉ほり聞かれりゃ全部喋っちまうだろう!」
「とたんに尻に火が着いちまったな……だから、三牛とあれこれ打ち合わせて、総勢、八人で闇に紛れて都から抜け出すことに決めた。その後は難波に停めてある新羅船に乗って唐へ逃げ、ほとぼりが冷めた頃にしらばっくれて舞い戻る手筈だ!」
長久も胸を突き出して実行中の計画を告げた。
「俺は、もうすぐ出発する遣唐使船の船員に紛れ込んで唐に渡ろうと考えているんだ。渡りは付けてあるから上手く唐に渡ったら向こうで会おう!」
「お前は役人の身分だからな……だが、俺たちと一緒に来てくれないか!俺たちはお前がいないと、恐ろしい荒海を渡る自信などない!」
長久は熊井に懇願され顔の動きを止めたが、正直なところ、禁制の私貿易を命懸けでやってきた仲間を裏切るわけにはいかないと澄み切った目を力ませた。
「分かった!俺も一緒に行く!俺をそこまで頼りにしてくれるなら断るわけにはいかないからな!」
「それでこそ、私の息子!」
突然、母親の千草が奥から現れた。
千草は、白髪は交じるが艶やかな髪を纏め、皺も通るが粉を吹いたような色白でふくよかな肉付きの顔をしながらも有無も言わさぬ口調で語り始めた。
「長久!今までお前には黙っていたけど……実は、お前には蘇我一族の血が流れておるのです!」
傍で聴いていた傑が目を丸くして驚いた。
「まさか、蘇我一族って?天皇よりも強くなろうとして滅ぼされたあの蘇我氏ですか?」
千草もびっくりして傑の顔を横目でじっと見た。
「この方はどなたです?」
「私は東国から来た旅の者です!中大兄皇子や中臣鎌足たちによって起こされた大化の改新のことですよね!」
「母上、今、何とおっしゃったのです?」
唐突な言葉を耳にした長久は稲妻に打たれたように背筋が伸びた。
「いつかお前に言うべき時が来ると思っていたけど今がその時だね。お前の祖父は蘇我倉山田石川麻呂と言って蘇我馬子様の孫に当たるお方なのだよ。で、私はその娘なのだ。世が世なら、我が一族は天子様に次ぐ高い位にあったのだが、あの改新によって、謀反人の一族とされ政の表舞台から、すっかり、かき消されてしまって……」
「驚きです。何でも話してくれた父からも聞いたことはありませんでした……」
「祖父の石川麻呂は、そもそも、蘇我一族ではあっても天子様をないがしろにする入鹿様の態度には賛成できかねておいでだった。それ故、改新断行の際には入鹿様の胸に一番矢を打ち込む役目まで担っていたのですよ」
すると傑が再び横合いから口を挟んだ。
「そうそう!それなのに改新が成就すると、蘇我氏の復活を恐れる者たちの罠に落ちて、朝廷に謀反を企てたという理由をでっち上げられて、長子の興志共々自害に追い込まれてしまったのですよね!」
「おやおや、貴方はよくご存じね!私は、そのころは、まだ赤児であったから乳母に託されて難を逃れたのです。その後は、素性を隠して暮らし、やがて、縁あって、お前の父親の長辰様のもとに嫁いだの。だがね、事情を知った長辰様は、私をもう一度、高い位につけようと一旗揚げるために唐に渡られたのです。だけど、まさか行方知らずになってしまうとはね……だからお前を不憫に思った長辰様のお父上が八方手を尽くして都の役人の職を当てがってくれたのです」
「そうだったのですか……それは知らなかった。だが、やっと、合点がいきましたよ。私の頭には役人とは思えぬ発想が次々と巡るのは、きっと、そうした血筋の濃さからなのですね。私貿易仲間に入り、北九州の島々に中継地を置いて大陸の珍品を本土へと密輸する仕事を始めたのは、知らず知らずに心の声に耳を傾けていたからです」
「私はね、ひょっとすると、子孫の誰かが蘇我一族の権力をもう一度、取り戻してくれると夢見ているのよ。ただ、お前だけは都の役人だからね、こうした期待を懸けないようにして来たのに……まさか都に刃向かうようなことをやっていたとは、一族の血の流れがお前に注がれるとはね。長久や、くれぐれも、私のことなど心配しなくて良いから一回りも二回りも大きい人間になって、都に対抗するような大きな仕事をして蘇我の家をもう一度立派にしておくれ!」
「この全身にご先祖様の血を感じます!どんなことがあろうと、必ず、生きて戻りますから、それまで、妹の春陽共々お達者でお暮しください!」
「ああ、何年でも何十年でも待っているよ!」
長久の喉は窮し、皺が覆う千草の手を強く握った。
すると突然、外門の扉を強く叩く音が響いた。
「誰か、おるか!家の中をあらためるぞ!」
「とうとう来たぞ!追手だ!」
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