まじめに授業を受けていたら先生から心配をされた


 高校の時、宗教の授業があった。何割かは信者だったらしいのだが、多くの生徒にとって「たまたま受かった学校が宗教系」なだけだったので、熱心でない生徒の方が多かった。そんな中私は目を輝かせて受講し、感想ノートもみんなの倍ぐらいを一番に書き上げていた。

 「この子は聖書に興味あるのでは? 入信するのでは?」と先生には思われたかもしれない。しかし私はただ、「考えるのが楽しかった」のだ。高校ともなると、自由に感想を書くという授業はなかなかない。さらにその頃には私は創作を始めており、毎日のように執筆していた。書くのも好きだったのである。

 先生もだんだん、宗教そのものに興味があるわけでないとわかってきたのだろう。ある日、『ぼくを探しに』という絵本を持ってきた。足りない自分を見つけに行く、という内容である。それを私に差し出したのだ。

 最初、意味が分からなかった。だが先生の話を聞くと、どうやら心配されているのが分かった。自分探しをする思いが暴走して、宗教の時間に救いを求めて考えまくっているように映ったらしい。ちなみに私は、自分には特に興味がなかった。単にあらゆることに興味があり、聖書を読むのも楽しかったのである。しかし「自分を見つけられるわけでもないのに思考しまくる人」は、なかなか理解されなかった。哲学科に進むと公言するようになると、他の先生にも心配されるようになった。「大丈夫?」「悩みある?」「死にたいと思ってない?」

 ただ、心配してもらえたというのは、ある意味ありがたかったのだ。というのも、二年、三年の宗教の授業はとてもつまらなかった。いかに神がすごいか、聖書が正しいかを説明されるだけで、自分で考えるということは求められていなかった。言われたとおりのことを書けば点数が貰えるので、いつしか私もただ覚えるために授業を受けるようになっていた。

 一年生の時、私は当たりを引いていたのだ。もし三年間つまらない宗教の時間だったら、学校で考える楽しさを知れず、哲学の道には進まなかったかもしれない。まじめに書いたことをまじめに読んでくれる先生がいたからこそ、私は希望を持てたのである。

 自分探しの本は今でも全く必要ないが、あの時心配してくれた先生は、考えた末にああしてくれたはずなのだ。決して、神や宗教が救いになるとも言わなかった。本が私の考えるきっかけになればと思ってくれたならば、その点ではきちんと私が理解されていたということだろう。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る