第10話 刑事は悪意なき悪戯をたしなめる
「あっ……」
少女は両目を大きく見開くと、椅子に座ったまま体をびくんと痙攣させた。
不気味な形のもやはまとわりつくように形を変え、見ようによっては入り込む場所を探しているようにも見えた。
だが少女が「ううっ」と呻いて苦し気にもがくと、もやは鋭い棘にでも触れたかのように離れ、若者の身体にするりと舞い戻った。
「……△▽○◇」
若者は先ほどまでの柔和な表情を険しい物に変えると、目論見が外れたことに苛立ったのか唐突に席を立った。
――今度は何をする気だ?
俺がさらに見続けていると、驚いたことに若者はテーブルに突っ伏している少女をその場に残し、介抱もせずにテーブルから離れ始めた。
――おい、いくらなんでもそれはないだろう。
俺は若者が会計を済ませ店を出たことを目で確かめると、ベーカリーを飛びだし少女のいる店に向かって駆けだした。
「すみません、待ち合わせです。連れが先に来ているので探させてください」
俺は応対に現れた店員にそう告げると、迷わず少女のいるテーブルに移動した。
「おい、大丈夫か」
俺が肩を揺すっても、意識が無いのか少女はぴくりとも動かなかった。
まずい、こいつは救急車を呼ぶことになるかな、俺がそう覚悟しかけたその時だった。
「んっ……うーん」
小さな呻き声と共に背中が動くと、少女がテーブルからむくりと上体を起こした。
「あ……」
少女は頬にかかった髪を払うと、うつろな眼差しで俺を見上げた。
「刑事さん……どうしてここにいるの?」
「君がマネージャーとこの店に入るところを、離れたところで見ていたんだ」
「マネージャー……あっ、そういえばさっきまでいたのに」
「奇妙な若者に、何かを植え付けられそうになったね?」
「植え付けられる……?あ、そういえば私、オーナーに会わせるって言われてここに来たんです。……でも、オーナーもいませんね。おかしいな」
「オーナー?……そうか、あの若者が店のオーナーだったのか。道理でマネージャーに何かを「指示」していたわけだ」
「二人とも、どこへ行ったんでしょうね」
「店を出て、どこかに行ってしまったようだ。意識を失っている君をここに残してね」
「意識を失った?……私が?」
俺は頷くと「詳しい説明は、後で改めてしよう。とりあえず今は一旦、家に帰った方がいい」と言った。
俺は少女を促すと店員に事情を説明して出口に向かった。俺たちが往来に出ると、すでにマネージャーとオーナーの姿は消え失せていた。
「家の近くまで送って行こう。落ちついたら改めて警察に連絡をくれ」
俺は不安げな表情の少女に最寄りの駅名を聞くと、先に立って歩き出した。
※
「私、笹原瞳って言います。市内の私立校に通ってます」
最寄り駅に向かう道中、少女は思い出したようにぼそりと自分の名を口にした。
「俺は朧川六文。三途之署の刑事だ。……差し出がましいことを言うようだが、今のバイトはあまり長く続けない方がいい」
俺は自己紹介を終えると、顔を前に向けたまま言わずもがなの説教を口にした。
「はい、そうします……そういえば、採用された時マネージャーからこんな物をもらいました。全員に配っているお守りみたいな物だって。……これも辞める時に返します」
足を止めて振り向いた俺に瞳がベストの胸元から取り出してみせたのは、長いチェーンに奇妙な形のチャームがついたネックレスだった。
「なんだろうな、これは。あのマネージャーの母国のアクセサリーかな」
「わかりません。今日はつけてくるよう言われたのでつけてますが、家に帰ったら外して引き出しにしまっておきます」
「それがいい」
俺が再び前を向いて歩きだそうとした、その時だった。
こっそり持ちだした『死霊ケース』がポケットの中で動いたと思った次の瞬間、ひものような物がいきなり俺の首を締めあげた。
「――ぐえっ!」
首に手をやった俺は、巻きついた物体の正体に気づき愕然とした。俺の首を絞め上げているのは瞳がマネージャーから配られたと言うネックレスのチェーンだった。
「なにをする……やめるんだ」
俺のポケットの中で『被害者』が何かを訴えるように動いたのは、警告だったのだ。
――くそっ、ひょっとすると『子供使い』がオーナーに会わせると言って彼女を連れだしたのも、カフェでの面接を思わせるやり取りも俺を誘き出すための芝居だったのか?
気道を塞がれた俺の肺が酸素を求めて喘ぎ、視界が赤く染まった。この程度では俺は死なないが、瞳の力は女子高生とは思えぬほど強くこのままでは首を切断されかねなかった。
「……すまん、悪いが親御さんに代わって少しばかりお仕置きをさせてもらうぜ」
俺はともすれば薄れそうになる意識を必死で保つと、身体の奥にいる「相棒」に呼びかけた。
――死神、すまねえがお前さんの「口臭」を後ろの娘に嗅がせててやってくれねえか。
――わしを嫌われ者にしようというのか。
――頼むよ、俺のおじさん臭だけじゃどうにも足りないようなんだ。
――やれやれ。たまに起こされたかと思ったら、若い娘に嫌われる役か。
「――ううっ」
突然、後ろで呻き声が上がったかと思うと、咳き込む声と共に俺の首を絞めている力が緩んだ。やがてどさりと人が地面に崩れる気配があり、自由になった肺が凄まじい勢いで呼吸を再開した。
「はあっ、はあっ……助かったぜ」
――お蔭でわしはこの娘から永久に疎まれることになる。……割に合わんな。
俺が不平を漏らす死神に心の中で手を合わせた、その時だった。ふいに俺たちの前に一台のバンが現れたかと思うと、中から杖を手にした見覚えのある人影が姿を現した。
「……あんたは」
「お前、我々の商品台無しにした。許さんぞ、刑事」
苦虫を噛み潰したような顔で俺の前に立ちはだかったのは、先に帰ったはずのマネージャー――すなわち『子供使い』だった。
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