②水を舞う蝶――1


 ぶつかってくる風は、夜なのに柔らかい。地面を蹴る足に神経が集う。息が切れそうになりながらも、疲労は好奇心を越えられない。

 蝶は軽やかに木々の間を飛び抜けていく。

 前を行く友に倣い、美樹も草を掻き分け、巨木を避け、草を踏む。そこかしこに漂う緑の匂い。遠ざかっていく鈴虫の声。


 木々の向こう側で、何かが弾ける音がした。


「わぁっ……!」


 辿り着いた目的の場所。まず目に飛び込んだのは、宙に散らばる水の粒。水面で震える月を破り、ひらりと離れていく濡れた翅。

 視界に広がるのは、蝶の群れが水飛沫を作り、湖の中から空へと舞い上がっていく光景だった。


「すごいっ……すごい! 本当にいたんだ! 湖の中に住む蝶々なんてっ!」


 美樹は興奮して歓声を上げる。


 “夜、湖の中から飛び出す蝶々を見たくないか”────祖父が部屋に入った後、広い廊下の窓越しに訪ねてきた亮。彼の誘いに乗って正解だった。こんな情景、高層の建物が並ぶ街の中では絶対に見られない。


 撮って残せる物でも持ってくれば、と悔いがぎり、しかしすぐに消えた。形にして持ち帰るのはもったいない。日常離れした幻想的な蝶々は、今の自分達だけのものだ。


「びっくりしただろ? 俺もずーっと知らなくてさ。こいつら明るい時間には出てこねぇんだ」

「そっか……じゃあ知ってる人も少ないのかな?」

「だろうな。暗くなると林の中は迷いやすいし。ここは水神様の大切な住処だから、大人でも夜は滅多に来ないしな」


 水神様。時代に取り残されたかのようなこの村に蔓延はびこる大仰な名は、若い亮の口からも何の違和感もなく吐き出された。


 美樹がそれを初めて祖父から聞かされたのは、確か小学生に上がる前だった。

 林に囲われた清らかな湖。そこには昔から水の神様が住み、小さな村を守ってくれているのだという。しかし、もしも湖を汚すようなことがあれば、神様の怒りに触れて鬼に変えられてしまう──そんな、恐怖を煽る忠告付きだった。

 村人の信仰心は未だに失われていないらしく、今日も祖父から同じ話をされたばかりだ。しかし思い返せば、その話をしていた時の祖父は珍しく歯切れが悪く、顔もやけに青ざめていたような気がする。

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