第78話 両片想いの結末を見届けます

「はあ、ひい……ふぁあああ?!」


暴風雨が通り過ぎたような閻魔王の足跡を辿り泰山王の執務室に飛び込んだ忠子の目に飛び込んだのは、焼け焦げた閻魔王の背中だった。

その陰から、泰山王の戸惑うような声も聞こえる。


「え……閻魔王……?」

「すまぬ。どうしても今すぐ会いたいと思ってしまったのだ。そして、会ってしまえばこうせずにはいられなかった。余は本当は自制心の弱い、愚か者ぞ」


擦れた声音は成熟した大人の男が睦言を語る色香だ。

心から詫びながらも許せと甘くねだっている。イケボの有効活用である。


(うわあああ、閻魔王様が泰山王様を抱きしめ……ら、ラブシーンでは?!)


忠子が慌てて柱の陰に隠れた。しっかり覗き見はしてはいるのだが。

しばらく二人とも動かずにいたが、恐る恐る上げられた泰山王の手が大きな背中に回った。


閻魔王が息を飲む気配がする。


「忠子という語り女から聞いた。あの日の……祭に行った日のことはひとつ残らず宝だと。まことか」


今度は泰山王の呼吸が乱れた。

かなりきつく抱きしめているように見えるから、閻魔王の腕には息遣いがはっきりと伝わっていることだろう。


「……まことに、偽りなきこと」


密着した二人の間に沈黙が流れる。

気まずいものではなく、甘やかな緊張をはらむものだ。


「接吻してしまったこともか?」


(うぉええええええ?! こっこれ、私聞いてていいやつ?!)


「……はい」


はにかみながらの返事に忠子の顔は熱くなった。第三者の忠子が真っ赤なのだから閻魔王はもはや失神寸前にちがいない。


「嫌だったのではないのか?」

「あなた様の唇の熱さ……この上ない恍惚を感じた。天を知らぬ我が、天にも昇るようとは正にこのことかと」


「ではなぜ、涙など零したのだ。余はてっきり泣くほど嫌だったのかと……」


微かに上擦っていたイケボが、今度はほんの僅かに詰るような響きを帯びる。

閻魔王、表情筋は死滅しているが声の調子で感情を隠せない方らしい。

顔面の圧が強すぎて、口調にまで気を配る余裕がなかったから気がつかなかった。


「人はこの悦びを愛する人と享受している。しかし死んでしまえば二度と触れることはできぬのじゃと思うたら、あまりにも哀れに思えて……涙を禁じ得なかった」

「……そうだったのか……。軽蔑されたのではなかったのだな……」


静かな、本当に静かな長い吐息が零れた。

心から安堵した雪解けのような気配が伝わってきた。


「だが、あのときは嫌われてしまったと思ったのだ。清廉で潔癖なそなたは穢されたと思い涙を零したのだと。許しも得ず触れてしまった己を恥じ、そなたの気高き誇りを傷つけてしまったと後悔した」

「それで、つれなくなられたのか? あの日以来お声もかけてくださらず、素っ気ない態度」


か細い声が優しい怨み言を紡ぐ。


「余に懸想されても迷惑だと己を嘲笑っていたのだ。……それでもそなたのことが頭から離れず、眠れば夢まで見る。故に不眠不休で、仕事に逃げていたのだ」



(そういうことだったんだ)


お互い想い合っているのにちょっとしたズレですれ違ってしまっていたのだ。


「わあ、巧くまとまったみたいだね」

「ひゃっ……! た、篁様?!」


いつの間にか背後に近づかれ耳元で囁かれて、文字通り飛び上がった。

篁はしたり顔で人差し指を唇の前にかざして見せる。その仕草につられて忠子も声を潜めた。


「篁様はご存じだったんですか?」

「いわゆる両片想いだったってこと? もちろんだよん、どっちも分かりやすいからねえ。閻魔王が仕事に逃げてるのも知ってたよ」


二人が内緒話を続けるうちにも、恋するご両人は盛り上がっていた。



「我は……心配で心配でたまらなかった。あの日は口づけまでしてくださったのに、なぜ急に冷たくなるのかと不安で一杯だったのじゃ。接吻の作法がなっていなかったのか? いや、それよりあのままではいくら十王と言えど病にでもなりはしないかと」


気がかりが解消されて緊張が解けたからか、泰山王は大粒の涙をぼろぼろと零した。


「なっ……泣くな。そなたに泣かれると……どうしてよいか分からぬ。ああ、詫びねばならぬのに、泣き顔を見ているとまたあらぬ行いに及びそうぞ」

「閻魔王様……ああ、何を……っ」


少し抱擁の腕を緩め、泰山王の細い顎に閻魔王の手がかかる。

白い頬を伝う涙の跡にそっと唇が近づいて――……



「泰山王様ーっ! ご無事であられますかあああああ!」


比喩ではなく大地を揺るがす大音響と共に、武装した獄卒たちが駆けつけた。

部屋に乱入される直前で、我らこれからいいところの二人は咄嗟に身を引き剥がした。


「うおおおおっ、閻魔王と言えど我らが泰山王様に無体を働くなら……あれ?」


いずれ劣らぬ巨体の鬼たちは手に手に信じられないほど見た目が凶悪な得物を持ちやる気満々だ。

決死隊と書かれた鉢巻を巻いている鬼もいる。


泰山王は素早く袖で顔を拭い、毅然とした態度で鬼たちに向き直る。


「何事じゃ。騒々しい」

「え、泰山王様? えーと……? 閻魔王が泰山庁をも手中にしようと攻めてきたと……」


泰山王が嫣然と微笑むと、鬼たちの殺気がデレデレのピンクオーラに変わる。


(この鬼たち、多分泰山王様私設ファンクラブとかそういうメンバーだ)


「酷い誤解じゃ。単に本当に火急の用件だった故、単身出向かれたにすぎぬ。まあ、確かに過激な移動方法ではあったがのう」

「うむ、余が自ら諦聴を駆るのが最も速き移動手段ぞ。騒がせたことは改めて謝罪をしよう。また、そなたらの忠義あっぱれである」


いけしゃあしゃあと嘘はついていないが事情を微塵もうかがわせない説明に、閻魔王もさらりと調子を合わせる。


(良かった。これで大団円)


「ところで、だ」


忠子がホッと胸を撫でおろした瞬間、紅の瞳がギロリとこちらを睨んだ。

その燃える眼差しは忠子を通り越して篁に注がれている。


「閻魔庁を放り出し、そこで何をしている。余は後を任せたと命じたはずだが?」


詰問された篁でなく忠子が竦み上がる迫力だが、当の篁は余裕の表情だ。

落ち着いた仕草で袖と裾をさばいて跪く篁の横で忠子も思わずひれ伏す。


「仕事はすべて相応しき者に振ってまいりました。もし万が一にも滞りがありましたら、この篁いかなる罰をも受けましょう」


ここで篁はいつものどこか芝居がかった様子を一旦引っ込めた。そうすると権力におもねらない実直な役人そのものの姿になる。


「申し上げます。ご自分が有能なだけでは、真の王とは申せませぬ。王は臣下を能く使ってこそにございます。そして閻魔庁の役人は閻魔王に仕えることを心より誇る者ばかり。我らからその誉を取り上げてくださいますな」

「…………」


(うっ……沈黙が辛い……)


険しい無表情で黙り込む閻魔王の袖を、遠慮がちに泰山王が引いた。


「うむ……。臣下たちにも心配をかけたようだ」

「鬼とて精神はございますれば気疲れはあるもの。不老不死の閻魔王とは言え、不眠不休が良いわけはありませぬ」


考えてみれば閻魔庁の鬼たちも忠子を歓迎してくれていた。本来なら生きた人間などよそ者通り越して異物以外の何物でもないのに。

きっと皆それぞれに、閻魔王の働きすぎを心配していたから。


「余はよい部下を持った。これより任せられる部分は任せよう。小野篁よ、適切な助言であった。褒めてつかわす」

「ありがたき幸せにございます」


閻魔王の斜め後ろでしきりに頷いていた泰山王の目も、篁を力一杯褒めていた。

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