第74話 冥府の王がお祭デート

泰山王は語った。


ある日、閻魔王から現世へ視察へ行こうと誘われ、祭へ行ってみたいと提案したのだ。

祭は非日常であり、異界の者が人間に紛れ込みやすくある。

それだけではない。折角外出するのだから、華やかな場所で楽しみたくもあったのだ。


「閻魔……えん殿、あれは何じゃ?」


偽名まで決めてノリノリである。

昨今流行している洋装に身を包んだ長身の閻魔王は、ため息が出るほど立派だった。


道行く娘どころか男性も振り向いているが、自分の方が興味の対象であるのを泰山王は知らない。

大人しいが粋な着物に身を包んだ清々しい装いの泰山王を見て、男か女か賭ける者もあった始末だ。


二人は仲睦まじく屋台や偽物小屋を眺めて歩く。

ふと甘い香りに足を止めると、見たことのない機械が回っていた。


「気になるか? あれは飴の一種ぞ。わたがしと言う」

「わたがし……わたが菓子になるのかえ?」


地獄でワタと言ったらハラワタである。


微笑みすら百年に一度あればいい方と言われる閻魔王が声を上げて笑うのを、泰山王は初めて見た。

よく通る笑い声は爽やかで豪快で、普段の陰鬱さが嘘のようだ。少年のような無邪気さにも溢れていたから、馬鹿にして嘲笑ったのではないとはっきり分かった。


「笑った……?」

「……あ、いや、すまぬ。知らぬのも無理はない」


しかしすぐにいつもの仏頂面に戻ってしまう。非難したように聞こえてしまったのだろうかと泰山王は爪を噛んだ。


(もっとあの笑顔を見ていたかったのに……)


視線を地面に落としてしまったのを見て、閻魔王の声が優しみを帯びる。

子猫や恋人の機嫌を取る男の口調に似ていた。


「詫びにひとつ馳走しよう。機嫌を直せ」

「そんな。先ほどもこれを買っていただいたばかりですのに」


泰山王はそっと胸元に手を当てた。懐深くには茉莉花ジャスミンの香り袋が入っている。


『茉莉花の香りは好ましい。だが悲しいかな余にはそぐわぬから茶にして飲むばかりでな。その点そなたであれば似合う』


先程かぐわしい屋台に釣られて近寄ったところ、気に入ったのならと閻魔王が買ってくれたのだ。


遠慮する泰山王を余所に閻魔王はさっさと綿菓子を一本所望し、割り箸の先に巻かれたふわふわとした飴が手渡される。


「これ飴屋。綿菓子を一本所望する」


空気を読まないいつも通りの尊大な態度に、綿菓子を作っていた中年男は哀れ目を白黒させる。


「おやおや、これはどちらのお殿様で?」

「詮索は無用ぞ。この者へ」

「へえへえ、旦那もご立派だが絶世の別嬪さんだ。お似合いでございますねえ」

「詮索は無用と言ったはずだ」


やくざ者崩れなのか、あまり品はないが度胸はいい。凄む閻魔王に怯みもせず金を受け取り割り箸を一本手に取った。


「おっとこりゃいけねえ。天下一の綿菓子を献上いたします故、お許しを」


閻魔王の調子に合わせることにしたらしい。飴屋は恭しく割り箸を捧げ持つと糸状にした飴を見事な手つきで絡め取り始めた。


「おお。何と不思議な。仙術のようじゃ」


泰山王は見る見る形作られていく綿菓子に目を輝かせ、閻魔王は少女のように頬を染めて喜ぶ泰山王を眺めている。


魔法のような時間は本当に数秒で、通常より大きめの綿菓子が差し出された。


「ささ、奥様。庶民の菓子ではございますが、一口食べれば天上の甘さ。仏様の雲はきっとこれなる幸せな味がするに違いありません。どうぞご賞味あれ」


唇で食むと一瞬で融けてしまう儚い菓子は例えようもなく甘かった。


「これは……なんという美味じゃ」

「気に入ったか」


それからも見るものすべてが珍しかった。

現世視察という名の祭見物を終え、日暮れとともに冥界の迎えを待つために町の北にある里山に登る。

今までいた町のあちこちにガス灯の明かりが灯り、地上の一部分だけが星空のように煌めいていた。


ドドン!


川の方で花火が上がった。

距離があるので小さくしか見えないが、空にパッと咲いては散る色とりどりの花から目を離せない。


今日一日だけで、色々な人間の姿を見た。

地獄で過ごす百年、現世での一日の方がよほど人間を理解できるのを知り、泰山王は半ば呆然としている。


鮮やかに咲いて儚く散る花火が、人の命の象徴のように見えた。

なぜかは分からないが、その一生を思うと瞳が潤むのを感じる。

散る花を惜しむ人の心地というのはこのようなものなのだろうか。


「美しいこと……」

「その通り、現世は美しい。人は寿命が尽きればこの世界から引き離される。その絶望たるやいかほどのものか。我らはその絶望に寄り添ってやらねばならぬ」



 * * *



「祭囃子を聞きながら、そう仰せになる閻魔王の瞳がなんと深い慈愛に満ち溢れていたことか……二人いつまでもこうしていたい、永遠に迎えが来なければいいと考えたほどじゃ」


懸命に堪えていた涙が、とうとう泰山王の睫毛を濡らした。


(綺麗……)


悲しみに沈む様を鑑賞するなど悪趣味極まりないが、大切に思う人のために流す涙はいつだって夢のように美しいのだ。


「死者の魂は無数だが、桝で真砂まさごをすくうような扱いをしてはならぬ。一粒一粒指先で摘まみ各々に別の皿を用意してやるようでなければならぬと、そういうお方だったのに、それが……」


忙しすぎて心を失くし、裁判が作業化してしまっているのを憂いているのだ。


(そう言えば冥界十王には対応する仏様がいるんだっけ。確か閻魔様はお地蔵様だ。本来は最も情け深い方なんだ)


「今の閻魔王からは、あの日確かに感じた深いお情けが感じられぬ。心を閉ざしてしまわれた。なぜなのじゃ。あの慈愛深かったお心が、何という変わりよう……」


敬愛していた人が変わってしまった悲嘆だが、それだけではない。


(心配なんだ。閻魔王様のこと、心から……)


十王は過労で倒れてしまうことなどないのだろう。

しかしそれならば、思いやりを失った今の状態は人間の感覚で言えば心を病んでしまったのと同じ状態なのではないだろうか。鬱病とか。


ならば今の泰山王の嘆きは、病に臥せってしまった同僚を心から心配し、何とか回復してほしいと願う心情なのではないだろうか。


忠子の人の好さが心を強くし、背筋を伸ばして居住まいを正す。


「……本当に、私でお役に立てるのでしょうか?」

「おお、引き受けてくれるか」


安堵して僅かに愁眉を開いただけで、輝くような美しさだった。

決して顔立ちが優れているからだけではない。閻魔王に対する想いが溢れているから。


「ええ。ですが、どうやって……?」

「とても内緒なのじゃ……近う寄れ」


泰山王に差し招かれ、執務机を挟んですぐ前へと進み出る。

さらに手招きされて隣へと回り込むと泰山王も上半身を傾けた。内緒話に参加しようとして顔を寄せてきた篁はしっしっと追い払われる。


「閻魔王はな……恋愛小説が大のお気に入りなのじゃ」

「れっ……!」


思わず反復してしまいそうになったが、片手で口を押さえられる。


「しーっ、静かに。……こっそり読んでいらっしゃるのを偶然発見してしまってな……誰にも話さぬとお約束したのに……」


泰山王は残念さを隠せていない。


(好きな人との二人きりの秘密を漏らすのは口惜しいけど、それを口外してでも閻魔様の現状をどうにかしたいんだ……)


「故に何か恋愛譚を語って差し上げてくれぬか。本を献上しても今の状態ではきっと手に取ってもらうことすら叶わぬ。そなた、かつて小さな姪に物語を語って聞かせてやり、書き留められたものが評判になって宮廷に上がったそうではないか。語りも巧いのであろ?」

「ひいっ?!」


(つまり閻魔様相手に恋愛小説の音読をしろと?!)


「無論タダでとは言わぬ。そなたは薬師如来に熱心に願掛けしておろう。その願を叶える」

「あ……」


閻魔王が地蔵菩薩の化身なら、泰山王の本地仏は薬師如来だ。


「分かりました……やってみます」

「おお、ありがとう忠子」

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