episode.5 笑顔
遠く下から、赤茶に荒れた大地に似つかわしくない清とした水音が聞こえてくる。すぐ傍で川が流れているのだ。今回、レグルスとミレアはこの水に恵まれた土地に建てられた魔研所を目指し進んでいた。このご時勢に珍しく、足下の崖下を流れるこの水は、然程汚されてはいないらしい。近くで魔研所に利用されているにも拘らず、だ。
少々腑に落ちないレグルスであったが、いずれにせよ立地条件に限らず魔研所が破壊対象であることに変わりは無い。取り留めも無くそのようなことを考えながら、ふとミレアの様子を伺ったレグルスは、どうしたものかと眉を軽く顰めた。
なんと彼女は、眼下に川のある崖の縁ギリギリを、またもフラフラとたどたどしい足取りで辿っていたのだ。その上、時折興味深そうに下を覗き込み、川の流れを眺めている。
「……」
レグルスは珍しく困惑した。この崖は些か高めであり、落ちればただでは済まないだろうことが容易に予測できる。
しかし、ここで声を掛ければ少女は振り向いた瞬間にバランスを崩し、それこそ真っ逆様に落ちてしまいかねない。
極力脅かさぬよう、努めて自然にレグルスはミレアの腕を引いた。案の定きょとんとした顔を上げたミレアを崖とは反対側へ寄せた、まさにその時……。
パアン!!
突然、少なくとも二人にはあまりにも突然すぎる銃声だった。レグルスなどは慣れたもので、ピクリと目尻を反応させたに過ぎなかったが、近頃五感が鋭敏になってきているミレアには少々刺激が強かったのか、大袈裟なほどビクリと体を揺らしていた。威嚇の為だったのか単に腕が悪かったのか、二人にかすりもしなかったのは幸いか。
「お、お前、『魔荒らし』だな!?」
銃声の発信源である男が震えた声で叫び出す。恐らく研究機関の関係者だろう。レグルスはいつも通り、否定も肯定もせず、静かに佇む。
「この辺りにはウチの魔研所しかねぇ……んなトコにノコノコ一般人が来る訳もねぇ。来るとしたら研究員か『魔荒らし』……そしてお前は、どう考えても研究員のナリにゃ見えねぇ!」
男が喚いている間に、レグルスは戦術を考えていた。相手は飛び道具、こちらは男の間合いに飛び込まねばならぬ刀である。あちらが既に構えているのに対し、レグルスは鞘から刀を抜くことさえできていない。加えて、ミレアのこともある。
──少々分が悪い、か?
この場を一歩も動かずに攻撃する方法に、魔法という手段がある。実はレグルスも相当な魔術の手練れなのだが、魔力を憎む彼のこと、気でも違わない限り使わないと決めていた。
「お、おい、なんとか言ったらどうなんだ……!」
恐怖で気がふれそうな男が今一度発砲する。ミレアがレグルスの背後へ回る。偶然銃弾に弾かれて撥ねた石が当ったのによほど驚いたらしい。
と、男の視線がミレアに移り、そこで止まった。ただでさえ恐怖で歪んだ顔が、更に醜く変貌してゆく。
「第三室の亡霊……! 嘘だろ、じゃ、あそこの室長は本当に『賢者の水』を完成させてたというのか?」
「……『賢者の水』?」
耳慣れない言葉に、レグルスは初めて声を発した。〝第三室の亡霊〟とは、ミレアのことを指すようだ。その言葉も気に入らないレグルスの、氷の刃で刺すような視線に、男は途端に先ほどまでの威勢はどこへやら、ヒッとか細い悲鳴を上げ身を縮めた。
「そ、そうか、貴様、わかったぞ。魔を憎むとか言っといて、実は至高の法欲しさに各地の魔研所を暴れ回ってるんだろう! だから水の研究所であるここを訪れたり、その亡霊を連れ回したりしてるんだな、どおりで死体が見つからん訳だ!」
ハハハハハ、と、何が可笑しいのか男は突然高らかに笑い出した。既に気がふれているのかもしれない。
この場合の〝至高の法〟とは不老不死の術のことを指す。〝賢者の水〟や〝水の研究所〟、またそれらとミレアとの繋がりがなんなのかはわからないが、つまり男は、レグルスが不老不死の研究成果を盗み出すために魔研所を荒らしていると言っているのだ。そしてその口ぶりから、ミレアの死体があるはずの第三室の跡地にないことで、実は連れて行かれたのではと疑われていたことが判明した。
生かしておけない。この男は、今までの研究員の中でも特に生かしておいてはならない部類に入る。何より、この男はレグルスの活動を、彼が最も忌むべき不老不死の法への執着と結びつけた。スラリ、と、とても理性的とはいえない衝動でレグルスは刀を抜いた。男が再度息を飲む。
「ざ、残念だな、ここに"水"はねぇよ」
「……そんなものに興味はない」
言い放ち、レグルスが地を踏みしめたその時、男は大声を上げながら発砲した。レグルスは構わず進むはずだった。
だがしかし、それは叶わなかった。男の下手な銃が、レグルスではない別の何かに当る。それは、当てられた物の力に逆らわずに後ずさり、崖のふちから足を滑らせ、川へ真っ直ぐ落ちて行った。
何を思ったか、ミレアがレグルスの前に躍り出ようとしたのだ。本当に、一瞬の出来事だった。
「……ミレアッ!」
レグルスは手を伸ばすが届かない。急ぎ崖下を覗き込む。ミレアは驚くべき表情をしていた。
──何も、こんな時に笑わなくても
それが、レグルスの見た最初のミレアの笑顔だった。
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