episode.2 芽生え

 歩く、という感覚が、未だ上手く掴めないのか。少女の歩みは、相変わらずよたよたと幼稚な型を抜け切らないでいた。少女の速度や歩幅に極力合わせても、レグルスはつい少女を置いてきぼりにしがちだ。歩行に不慣れなままの少女に、時々レグルスが立ち止まり、開いてしまった距離をその都度清算することは、既に互いの間で暗黙の了解となっていることだった。……少女が理解しているか否かは別として。

 いつものように、レグルスが気を配って少女に歩調を合わせていた時のこと。ふと、レグルスは違和感を覚えた。その方向に目を向けると、少女がクイクイ、と、コートの裾を引張ってきていた。

「……?」

「わ、たし……? わたし?」

 か細い声をなんとか聞きとめる。残念ながら、レグルスには彼女が何を言いたいのかわからなかった。だが、じっと見つめてくるその瞳に、少し経ってから少女の意図を察した。元は少女の胸に付いていた、金属質の冷たいプレートの文字を読み取り、少女の求める答えを推測する。

「ミレア……恐らく、な」

「ミレア……オソラク……」

「……『オソラク』は要らない」

 それから暫く「ミレア、ミレア」と繰り返すと、少女──ミレアは、薄く口を開いてうんうんと納得したかのように首を振った。まるで脳に刻み込むかの如くその名を口にし続けるミレアの頭を、レグルスは静かに撫でてやる。コクリと一つ頷いて、再びレグルスに向けたミレアの顔は、僅かばかりの好奇心に彩られていた。やはり先ほど同様、コートをクイクイ引張ってくる。

「アナタ、アナタ」

「?」

「わたし、ミレア。アナタ、何?」

「……」

 恐らく今度も名を尋ねているのだろう。どうやらこの少女は、初対面の者同士が普通行う、自己紹介というものの真似事をしたいらしい。レグルスは数瞬、どうしたものかと思案したが、結局素直に思った通りのことを伝えることにした。

「俺は、レグルス」

「レグルス」

「……それ以上でも、それ以下でもない」

「……レグルス」

 口に出して再度確認すると、少女は至極満足そうにフンフンと唸った。そして次に、もう用は済んだろうと言わんばかりに再び先を進み始めたレグルスを追いながら、息を弾ませこう問うた。

「ミレア、レグルス、仲良し?」

 唐突だ。少なくともレグルスにとっては、限りなく唐突な問いだった。レグルスは思わず答えに窮する。が、彼としては非常に困ったことに、ミレアの視線は何故か期待に満ち満ちていた。ふ、と軽く嘆息し、仕方なしになるだけ無難な答えを選ぶ。

「さぁな……お前はどう思う?」

「?」

 途端にきょとん、と呆けるミレア。まさか自分に質問が回ってくるとは思ってもみなかったのだろう。回答権をミレアに擦り付けることで難を逃れたつもりのレグルスだったが、ミレアの答えに、その思惑は微妙に外れることになる。

「まだ、早い。わからない」

(……わかってるんじゃないか)

 レグルスとミレアは、何しろまだ出会ったばかりだ。仲が良いも悪いも、それを判断する材料を生憎持ち合せていなかった。まだ、そこまで互いを知らないのが実情だ。だからこそレグルスは答えを出せず、それでも純粋であろうミレアの気持ちを無碍にはすまいと茶を濁したのに、当のミレアの答えと言えば。そうではないとわかっていながら、もしやこの少女にからかわれているのではないかという疑念が、レグルスには拭えなかった。

 この時、〝ミレア〟は再び生まれた。レグルスも気付かぬうちに、新たな自我は、少女の中に確実に芽生え始めていたのだ。

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