2-26:憤怒の赤 下

「……我が神、御名を忌避する我が主、迷える我に、力を与えたまえ……」


 邪神に捧げる祈りが紡がれると、祭壇の上に陣が現れる。何が起こるかは分からないが、確かにアレをあのまま放っておくとマズそうだ。しかし、ティアは魔将軍の猛攻を防ぐのに手一杯、ここは自分がなんとかしなければ。


 一瞬だけ、ティアと目が合う――彼女が何を言いたいのかを瞬時に察し、こちらは合図の代わりに頷き返す。単純な仕掛けでは防がれる、それならば――ポケットから瓶を取り出し、仕掛けをすることにする。


 直後、自分の周りを護っていた結界が弱まる。そして、目の前には僅かな隙間、ここから短剣を通せば良い。右手に仕掛けの済んだナイフを持ち、しゃがんだままの姿勢で、横から薙ぐように短剣を放つ。


「ネストリウス!」


 こちらの攻撃が、大悪魔には読まれていた。その声に反応して、ジャンヌは振り返り、こちらが投げたナイフを先ほどと同じ要領で掴もうとする。しかし、振り返りざまで若干焦りもあったのだろう、今度は僅かにだが、手の皮膚を切ることに成功した。


 今回はそれだけでいい。僅かでも傷つけることが出来れば、この奇襲は成功である。それとも知らず、ジャンヌは憎々し気にこちらを見つめている。


「邪魔をして…………か、体が……!?」


 忌まわし気な表情のまま、ジャンヌの顔が硬直してきている。その形相は、元々の美しい顔立ちなど面影がなく、悪魔の使途と言っても差し支えのないものだった。


「……悪いが、毒を仕込ませてもらった。しかし、お前も散々なことをしたんだ、卑怯とは言わせないぞ」

「ぐぅ……あ、甘く見るなぁああああ!!」


 女の低い声が響く。まだ、彼女の意志は折れていない――そう、陣は維持されたまま、つまり詠唱もそのまま中断されていなかった。


「我が主! 其に仇なすものの護りを払いたまえ!!」


 こちらが二の矢を撃つよりも早く、事は終わってしまったらしい。ジャンヌの下にある陣から禍々しい黒い光が一気に噴き出し、それらは収縮して、広間の天井を目指して遥か上へと飛んで行った。


 同時にティアとタルタロスの方でも動きがある。ティアの拳が宙を切っている――タルタロスが、また床下へと沈んで行っているのだ。そして、すぐさま祭壇の下から悪魔が再び現れたかと思うと、左腕でジャンヌを抱え、右腕を上へと伸ばす。


「……この女には、まだ使い道がある。この場は退かせてもらうよ……」


 タルタロスの右の手のひらに小さな陣が出来ると同時に、遥か上空から大きな物音が鳴り響きだした。上を見上げると、僅かだが光りが差し込み――アレは、天井が空いたのだろう、この地下空間に入った時に見た、曇天が微かに見えた。


 成程、迷宮内の構造を変えていたのは悪魔の方だったのか。視線を下に戻すと、タルタロスはぐったりしているジャンヌを抱えたまま跳び、邪神像の取っ掛かりを足場に消えていった。この場に残るのは、自分と、そして上を見上げて呆然としているティアだけだった。


「……すまない、俺がきちんと止められていれば……」


 声を掛けると、ティアはこちらを向いて微笑みながら首を振った。


「アラン君、謝ってばかりだね……君は最善を尽くした。むしろ、悪いのはボクさ。彼女をあまりにも挑発しすぎたせいで、怒りからか火事場の馬鹿力を発揮させてしまったようだからね。大見得切った割に仕留め損ねたのだから、こちらこそすまなかった」


 ティアはベルトに武器をしまうと、段々とこちらに近づいてきて、自分の周りにある結界を解いた。そして、近くで立ち止まって少し俯く。


「……これだけは伝えておくよ。ボクが前に出たがらないのは、クラウに頑張ってほしいから、というのが一番だけど……この得体の知れない力をあまり使うべきではないと思っていたからもある。そしてやはり、禄でもないものだったね……」


 ティアは俯いたまま、自分の手を見つめているようだった。確かに、彼女の力は圧倒的だった。本物の魔将軍と、それに近い実力を持つ相手を二人同時に相手にして優勢だったのだから。


 それを禄でもないものと評するのは簡単かもしれないが、彼女はその力を、自分のためでなく、何かを護るために使ったのだ、その在り方を否定してほしくなかった。


「……使えるものは何でも使う、それでいいじゃないか。それに、邪神とか言われてるティグリスとか言う神が悪者なんて決めたのは、きっと周りの奴らだろう?

 事実なんて誰にも分からないし……単純に、ティグリスとやらは困っている奴は人間でも魔族でも、誰でも助ける性質なだけかもしれない。それに、ティアはクラウと俺を助けてくれたんだ。その力の使い方は、きっと間違いなんかじゃないと思う」


 こちらの言葉に、ティアは一瞬呆気にとられた表情をする。しかし、すぐにくつくつと笑い出した。


「いけないいけない、ボクとしたことが、慰めてほしかったのかもしれないね……うん、この力は間違いじゃない。それに、ボクの力の在り方は、それはすなわちクラウの願いと同等だ。だから……アラン君、ありがとう」


 なんとなくだが、ティアは常々こういう言い回しをする――ボクの何某はクラウの何某と。一つの体に二つの人格、それでも二人の願いは一つ、そういうことなのかもしれない。


「さて、そろそろボクは休みをもらおうかな……天窓が開いたことで、レム神の加護が戻ってきたようだし。ボクのほうは魔力切れさ。あとはクラウに任せることにするよ……あまり嫉妬されるのも本意じゃないしね」

「え、ちょっ……」


 引き止める間もなく、ティアは目を閉じ――瞼を上げた時には、いつもの青い瞳、クラウに戻っているようだった。


「……違うんですよ」

「何がだ?」

「嫉妬とか、そういうんじゃないんです! なんか、ずっと私が蚊帳の外なのが寂しいというか、そういう感じなんです!」


 そこに対する否定だったのか。クラウは頬を膨らませてこちらを見ている。実際、クラウの言っていることも正しいのだろうし、変に真面目に返すより、ふざけて返したほうが調子も出るだろう。


「なんだ……まさかお前、そうだったのか!? いいぜ……俺の胸の中に飛び込んでおいで!」


 少し大げさに両腕を広げてみたところ、クラウの頬は一気にしぼみ、目線が一気に冷ややかなものへと変貌する。


「え、いや、すいません、なんか単純にちょっと気持ち悪いです」

「かー!? なんだと、こっちが変な空気にならないようにふざけてやったってのに! 気持ち悪いってのは結構精神に来るんだぞ!? ……来るんだぞ……?」

「……あ、なんかごめんなさい……」

「はぁ……まぁ、ともかく、アイツらを……」


 追わないといけないな、そう言おうと思ったときに、場に変化が現れる。通路のほうから亡者の呻き声が押し寄せ、次第にそれらが暗闇から姿を現してくる。


「お、お、なんだやんのかですよ!? 今の私には、後光射す我が敬愛の女神、レム神の御加護が……」

「お、おいクラウ、なんかそういう感じじゃ……」


 クラウは荒ぶる何某かのポーズを取ってふざけてはいるものの、ともかく魔法が復活したのなら、数体、いや十数体くらいなら全然相手にできるだろう。しかし、この広間を目指して来ている亡者の数は、どうやら百でもくだらないほどの数であるようだった。


「あ、あ、アラン君? ここはアナタにお任せしてもいいですよ?」

「さっきの威勢はどこに行ったんだ!? だが、妙だぞ……」

「……そうですね、亡者どもは近くにいる私たちのことなんで意に介していない、これがアウトオブ眼中ってやつですか」


 アウトオブ眼中、その言葉はこの世界にもあるのか。というか、これって死語なんじゃないか、イヤこの世界では現役なのか――そんなことが頭をよぎったが、冷静に考えればこんなくだらないことを考えている暇はない。


 不死者どもは、空間にある階段をどんどん上っていっている。その先にあるのは、あの空いた天井だ。つまり――。


「……骨には眼球はないのに、アウトオブ眼中とはこれ如何に?」

「馬鹿なこと言ってる場合か!? アンデッドどもは、地上を目指しているんだ!」


 ソフィアの慧眼のおかげで、恐らく上にも兵が配備されてはいるが、如何せん数を考えればどこまで持ちこたえられるかは分からない。それに、あの悪魔、タルタロスが街に現れたら、ソフィアやエル、クラウなどのレベルでないと太刀打ちできないはず。


「……早く街に出ないとな。住民に被害が出てしまう」


 そう呟くと、クラウがこちらを見て微笑んだ。


「うん……? 変なこと言ったか?」

「いいえ、アラン君だなぁって思っただけです」

「なんだ、また貶してるのか?」

「いえいえ、褒めてるんですよ、今回は」


 今回は、というのが引っかかるが、ともかく今は急がなければならない。どうにか外に出る活路はないか、周りを見回してみても、どこを見ても歩く死体ばかりである。


「ここの階段は使えそうにないな……亡者どもで渋滞していやがる」

「それじゃあ、さっきの螺旋階段を登っていきましょう。恐らく、本来はあちらに、大聖堂に抜ける道があったはず……亡者どもを外に出すために、構造も元に戻ってるかも!」

「あぁ、そうだな。今なら亡者に襲われる心配も薄そうだし……確実じゃないが、他に方法もなさそうだ。クラウ、行こう!」


 そう言って、元来た道のほうへと駆けだすと、体を光り包んで軽くなる。クラウの補助魔法か――そして、すぐにクラウが横に並んだ。


「アラン君、ティアのこと……」


 それだけ言って、クラウは黙ってしまう。恐らく、悪魔憑きだとか、ティアのほうが強いのに、ここで自分が出ていいのかとか、ぐるぐる思考が回っているんだろう。


「……お前の友達、凄いのな。クラウもティアも、揃いも揃ってエキセントリックだ」

「なんですかその言い草……でも、ありがとうございます」


 クラウにはクラウの、ティアにはティアの良いところがある。優しい青と強い赤、どちらの瞳も頼りにしている、それだけなのだから。

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