07、劇場支配人アーロンの事務所にて
「歌ってくれる気になりましたか!」
感動に声を震わせて、皇后劇場支配人アーロンは俺の両手をがしっとにぎりしめた。
アーロンは帝都中心部の古い集合住宅を借りており、一階を事務所、二階を自宅として使っているようだった。
俺たちが案内された事務所には、紙とインクの匂いが充満していた。その理由はすぐに分かった。ところせましと
「あなたの声は確か、あたたかみのあるソプラノでしたな」
アーロンはうしろの棚から持ってきた紙の束を、すごい速さでめくり始めた。
「この役なんか、ちょうどいいかも知れない」
ひとりごちながら椅子に腰かけ、古そうな執務机に楽譜を並べてゆく。
「この曲は前シーズン、こっちは前の前のシーズン用にフレデリックが書いたアリアだ。五日後のオーディション用に二曲程度、選んでほしい」
「えぇぇっ!? 五日で二曲!? むりむりむり!」
執務机の前で棒立ちになったまま、俺はブンブンと両手を振った。
「譜読み、私も手伝うわよ?」
猫耳カチューシャで獣人族に変装したレモが、横から口をはさむ。
「でも俺、オペラアリアなんて歌ったことないもん!」
しまった。女装してるのに、またつい俺って言っちゃった。
「それなら一曲は、得意な曲を歌っていただいて構いませんよ」
「やっぱり世俗曲じゃないとだめですよね?」
俺のレパートリーは、ほとんどが精霊教会の聖歌なのだ。
「いいえ、宗教曲でも問題ありません」
アーロンは
机の上に並べられた楽譜をぺらぺらとめくっていたレモが、口をひらいた。
「オーディションでは新作オペラの曲を歌うわけじゃないんですね」
「出演者が決まってから、各歌手の声に合わせてフレデリックが作曲するんですよ」
なるほど。それで過去作から曲を選ぶのか。
レモは楽譜を見ながら、初見で旋律を口ずさんでいる。
「この曲なんか、ジュキの声に合うんじゃないかしら?」
「そうなの?」
よく分からず楽譜を受け取る俺に、
「ジュキの声ってどこか哀愁があるっていうか、なつかしい感じがするのよね。だから短調の静かな曲がぴったりだと思うの」
「え~俺、長調の方が元気が出て好きなのに」
短調の曲って寂しい気持ちになっちまうから苦手なんだよな。
「じゃあこっちはどうかしら? A部分は短調だけどアレグロで激しい曲調。B部分は長調で優しげな旋律だわ。コントラストが効いていて素敵な曲よ」
レモ、本当に頼もしいな。マジで連れてきてよかったよ。レモは楽譜を読んだだけで、瞬時に曲が頭に流れるのだろう。さすが正当な音楽教育を受けてきた貴族の娘さんだ。
「そのアリア、いいよねえ!」
どっかりと腰を下ろしていたアーロンが身を乗り出した。
「一幕の最後を飾った見せ場のアリアで、フレデリックも気合を入れて書いた曲だよ!」
興奮した口調から、このおっさんも音楽好きなんだろうなと察する。
「それじゃあ――」
アーロンは執務机の引き出しから、厚紙で出来た紙ばさみを取り出し、
「この一押しのアリアが難しすぎた場合に備えて、予備で二曲入れておくよ」
楽譜をはさんで差し出すと、
「お預かりいたします!」
俺が手を伸ばすより先にレモが両手で受け取った。俺のマネージャーか何かかな?
「練習場所はあるのかい? 廊下に出て突き当りの部屋に
「い、いえ――」
俺は慌てて首を振る。支配人が仕事している家で、よっちよっちと譜読みをするなんて恥ずかしくて聞かせられない。
「魔法学園の音楽室を借りられることになったので大丈夫です」
師匠が手配してくれたのだ。魔法学園は貴族の子女が通う学校。彼らは幼少のころから教養として音楽を学んでいるから、魔法学園にも音楽室が完備されているそうだ。
旧友と顔を合わせたくないレモは、初め乗り気ではなかったが、六月ともなればもうすぐ試験期間。多くのコースが必修時間を終えて学生はまばらだと気付いて、首を縦に振ってくれた。
「明日かあさって、時間があればフレデリックが指導してくれるはずだ」
「ひええ……」
俺はアーロンの言葉に恐れおののいた。田舎の教会で歌っていただけの俺が、帝都の作曲家のレッスンを受けるだなんて、胃が痛くなっちゃうよ!
「ほら、オーディション本番も彼が伴奏してくれるからさ、事前に合わせておいたほうが安心じゃないか?」
「あのっ、レモに伴奏してもらってはダメですか!?」
思わず高い声で尋ねる俺。
「ああ、もちろん伴奏者同伴でもいいよ」
よかったぁ。レモがすぐうしろで弾いてくれると、それだけで安心できるんだ。彼女の伴奏が、俺の声を優しく包み込んでくれるようで――。
「ふふっ、私もがんばるからね!」
レモが俺をぎゅっと抱き寄せた。
「そうそう、オーディション当日は皇后様も聴きに来るから、彼女の衛兵たちが氷魔法を使って劇場を冷やすはずだ。外はすっかり夏の陽射しだが、あたたかくして来てください」
「氷魔法のおかげで夏にもオペラシーズンがあるんですね」
納得するレモを見ると、普通は秋や冬にやるものなのか。
帰りぎわ、アーロンは慌てた様子で一枚の紙を手に俺たちを追ってきた。
「しまった。お名前と連絡先をうかがうのを忘れていました!」
思ったより間が抜けているな。いやちょっと待て。俺も歌手用の偽名なんて考えてないぞ!
「ジュリア――」
言いかけてレモを見ると、彼女もめずらしく落ち着かない顔をしている。
そうだ、ジュリアはレモの母上の侍女っていう設定にしていたっけ? いや、聖ラピースラ大聖堂の巫女だっけ?
「ジュリア?」
おうむ返しに問われて俺は、ええい、ままよ! とばかりに、母さんの名を告げた。
「ジュリアーナ・セレナーデです」
セレナーデ、メロディーエ、アルモニアなど音楽に関するファミリーネームはセイレーン族の特徴だ。だがそんなことを知っているのは亜人族くらいだろう。案の定アーロンは、なんの疑問も持たずに母さんの名を書き記した。
「こちらにサインをお願いします」
母さんの氏名の下にサインをするなんて変な気分だが、俺は何食わぬ顔でサラサラと署名した。
─ * ─
次回『レモと二人、愛の音楽室にて』。ラブラブ練習タイムです。オペラアリアの歌詞も紹介するよーっ!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます