モラトリアム

 昼休み明けの授業は美術だ。僕にとってはラッキーな時間で、大抵の場合、ただ絵を描いていれば良いのだから随分と楽な時間なのだ。

 しかし今週は粘土細工の期間で、描画と比べれば手に粘土がこびり付いたりして、あまり良い気持ちがしない。それでも難しい数式を解いたり、退屈な歴史の話を聞かされるよりはまだ良いほうだ。

 僕は美術室に入るなり席に着く。座席は自由だが、何回もしていると決まった席というものができてくる。僕は一番後ろの最も出入り口に近い席に座っている。そして隣には、いつも野田が座っている。


 美術は、芸術科目の中から選択できる授業だ。僕は、野田が美術に関心を寄せる印象が無かったので、どうして選択したのかを訊いたことがあった。彼は「美術の授業は他と比べて気軽そうだったから」と答えた。僕と大して変わらないじゃないか。いいや、僕の場合、美術には多少関心があるし、絵を描いたりするのは得意なほうだと自負している。

 いま作っているものは、野菜や果物を観察しながら粘土で造形するというものだ。

 まず先に対象を上面、側面、底面とあらゆる角度を観察し、スケッチブックに描き出していく。その後に造形、着色といった工程だ。

 僕はピーマンを選んだが、もっと単純な形の物にすれば良かったと後悔した。


 スケッチまでは良かったが、粘土をこねる工程に移ると、これが存外難しい。それらしくはなっているが、いまひとつピーマンの特徴を再現しきれていない。一方で、野田はバナナを作っていた。バナナに見えなくもないが、単なる湾曲した棒のようでもある。野田はしきりに粘土の形を整えるが、上の空の目をして手も覚束ないようだった。

 野田は手を止め、僕に問いかける。


「中崎はさ、もう進路とか決めてんのか?」


 僕は少しまごついたが、簡潔に答えた。


「まだ決めていないよ」


 もう三か月経てば僕たちは三年生に上がる。大学受験を見据えて本格的に準備を始める時期なのだ。しかし、僕は進学の意思はあるのだが、何を学びたいかという点に於いて決断を下せずにいるので、志望校も決めかねている。中学生の頃から漠然と芸術に関する道に進みたいと思っていたので芸術大学を考えたが、やりたいことは絵描きなのか、或いは造形、建築、文学や音楽なのか、具体的なことが判然としない。僕は幼い頃から絵を描くことが好きだったが、画家の才能があるとは思わない。たとえ一般企業に勤めるとしても、強くイメージできるものは何一つとして無い。

 僕の返事のあとに、野田は話を続ける。


「俺も同じだ。なんとなく自分の学力に合った、文学部のある四年生大学を受けようと思うんだけど、それから先の話、どのような企業に就くかは何も決めていないんだ」


「それは大学に入ってから考えれば良いじゃないか」


「そうなんだけれどね。なんて言えば良いんだろう、将来の自分が何をしているか想像できなくて怖いんだよ」


 何も考えず茫然と海を彷徨う水母のように生きている僕とは違って、将来のことを真摯に考えているのだからまだ良いほうなのではないかと言い返してやりたかったが、間髪を入れずに野田が続ける。


「俺たちは三十歳、四十歳になった時にはどうなっているだろう。今より老いた姿をして階段を上がるのが少し辛く感じたり、一生を懸けた仕事をみつけて毎日せっせと働いているだろうか。もしかして結婚もしているだろうか。きっと様々なことが今とは違っているんだろうね。中崎、俺は歳を取るのが怖い。大人になるのが怖い」


「そうは言ったって、人は誰だっていつかは大人になるものだよ。今からそんなことを気にしたって仕様がないじゃないか」


「まあ、そうだよな。確かに仕様がない」


 執拗にこねられた野田の作品は、バナナというより却って茄子に見えてきた。


「すでに心に決めた目標があって、それに全力になっている奴らを見ていると、何だかさ……」


 どうか、それ以上は言わないで欲しかった。


「自分が情けなく思うんだ」


 僕のいずれピーマンとなるであろう粘土も、暫くは満足する形にならなかった。

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