異変の瑞兆(2)
振り向いた三人の視線を悠々と受けたのは、話題の人物。
「叔父上がこんなところにいったい、何の用で!」
「人の邸をこんなところって言わないでもらえます?」
「ややこしくなるからお前はつまらぬことで口を挟むな、玄月」
「桂木から聞いた時は耳を疑ったが……そなたら、本当に仲が良かったのだな」
苦言を呈しながらも打ち解けきった春明の見慣れぬ様子に、慶長はそう心地よげに笑った。その口元を、扇で隠す。
「なに、ここを訪れたのは、この邸の
睨み上げる定周へちらりと視線を流した慶長は、そこでわざとらしく扇をぱしりと閉じて、引き上げた口端をのぞかせた。
「安心しろ。そなたの叔父は心が広い。見なかったこととして不問にしてやろう。私が親王に呪詛をしかけたなどという、根も葉もない誹謗もまとめてな」
「誹謗って、叔父上、隠れて聞いていらしたんですか! 相変わらず人が悪い!」
「そこまで大声で叫んでいれば、ここに
噛みつく定周を呆れた様でいなして、慶長は春明と玄月へ目を向けた。
「さて、だがひとつ分かったことがある。私が春明を探していたのも、大きな問題が起きたゆえでな。定周がそこの陰陽師に頼み込んで、呪詛でも仕掛けて来たのかと思ったのだが、どうやらそれは違ったらしい」
「呪詛を疑うとは、穏やかならぬことですね。なにがあったのですか?」
眉をひそめる春明に、慶長の顔から笑みが消えた。
「――藤壺が、血と羽根を吐いた」
どこか泰然と余裕を漂わせていた声音が、重く、冷たく沈む。
「昨夜のことだ、急に咳が止まらなくなったと思ったら、血を吐いて倒れたらしい。私が駆け付けた時には、もう意識はなかった。そしてその吐いた血のうちには、黒い烏の羽根のようなものが混じっていた。女房どもが恐れて触れも出来ずにいてな。そのまま掃除もされずにあったので、私も目にしたが……――あれは、いかなることだ、春明。
慶長は骨ばった手のひらで顔を覆った。その滲み出る焦りと不安を隠そうとでもいうように。
「まさか……藤壺中宮もそのような目に……」
呆然と、定周が見たことのない憂いをたたえた叔父を見つめ上げる。
困惑と失意に澱んだ空気に、春明は玄月を振り向いた。その意を察して彼が頷いたのを受け、すっと威儀を正して、
「
「謀反、だと……!」
「して、その口ぶりは、その不届き者の心当たりがすでにあるようだな?」
おののく定周に、慶長の落ち着いた声が重なる。春明を睨むように見る眼光は、鷹のように鋭い。静謐で重厚な威圧。
しかし、それに気圧されることもなく、春明は己を見下ろす慶長を仰いだ。
「それは――」
紡ぐ、その先を――突然の地鳴りが遮った。
大地から突き上げるような振動が、邸の柱を、床を軋ませ、震わせる。
と同時に、轟音が耳朶を強烈に打った。ひび割れ、崩れる
「まずい!」
とっさに
低く唸る悲鳴のような風切り音が空気を震わせたかと思うと、《澱み》の渦巻く黒い濁流が、都中からあふれ出て天を突いた。
黒い濁流に包まれて、青く澄んだ空が赤く濁る。腐った血肉に似た、暗い赤だ。そこからはらはら、なにか黒いものが雪のように舞い落ちてくる。
「――烏の羽根だ」
射干玉の目をすがめ、ぼそりと玄月が呟いた。
少なくとも、都全体が――もしかしたら、それ以上の地が、揺れ轟いた大地から噴き出た《澱み》のうちに、とり込められていた。
「瑞兆の黒羽根が、なぜ、こんな不吉な空から……」
震える定周の唇から疑念がこぼれる。それに、慶長が皮肉を口端に滲ませ、引き上げた。
「天帝の
「――天帝など、もうおりませんよ」
春明が口を開くより先に、そう、涼やかな声が答えた。天の星抱く切れ長の瞳が、慶長を静かに見上げる。
「ただ、それに等しきものが、現れるかもしれないだけです。まあ……――させませんけどね」
そこでふわりと黒い双眸は、春明を映して微笑んだ。
ぱちりと指を弾くと同時に、揺れでところどころ壊れかけた邸のどこからともなく、数人の
「ともかく、いまは大樹帝の元へ急いだほうがよさそうだ。一応ここは安全ですので、おふたりはここにおいでください。あ、ご不安なら、春明を残してきます?」
「おい」
満面の笑みとともの提案に、春明は苛立ちを投げかける。
「いまのお前をひとりで行かせられるか。自分の
「病身? 玄月が? これほど無駄に元気を有り余らせているように見える男が?」
眉をつり上げる春明に、定周が首をひねる。いたって健康そうな見た目、身分を顧みない調子づいた言動――そう、定周の目には映っているのだ。
いまだ己を覆う虚勢の術を取り払わない玄月を春明は睨むが、彼は見逃してよ、とばかりに肩をすくめただけだった。
「俺としては、君こそあまり、行かせたくないんだけどね」
その身のうちに宿すものを、忘れたわけではないだろうにと言外にいう。しかし春明は、お互い様だと首を振った。
「言い合っても埒がない。共に行くぞ」
「ま、仕方ないね。確かに……俺一人じゃ、流石に心もとなかったし」
瞬間、ふわりとふたりの足元に白い光が輝いた。かと思うと、それは見る間に膨れ上がって、ふたりを背に庭を駆け抜ける青毛の馬へと成り変わった。
二頭の馬はひと蹴りに庭の池を超え、塀を飛び、見送る慶長たちの視界の内から瞬く間に駆け去っていく。
赤い澱んだ空の元。春明と玄月は
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