異変の瑞兆(2)


 振り向いた三人の視線を悠々と受けたのは、話題の人物。藤原慶長ふじわらのよしながその人だった。深い紫を帯びた黒の直衣のうし。冠をきっちりとかぶった様が、定周さだちかと違い、おおやけの場を出入りしていることを示していた。相変わらずふてぶてしく、人を食った笑みを浮かべている。だが、どこかその顔色に疲れがうかがえた。


「叔父上がこんなところにいったい、何の用で!」

「人の邸をこんなところって言わないでもらえます?」

「ややこしくなるからお前はつまらぬことで口を挟むな、玄月」

「桂木から聞いた時は耳を疑ったが……そなたら、本当に仲が良かったのだな」


 苦言を呈しながらも打ち解けきった春明の見慣れぬ様子に、慶長はそう心地よげに笑った。その口元を、扇で隠す。


「なに、ここを訪れたのは、この邸のあるじに用があってではない。ただ、春明がこちらにいるだろうと、桂木が言うのでな。そなたに急ぎの用があった私としては、ここに来るほかあるまいよ。よもやそこに、宣旨せんじにおいて謹慎中の甥が、のこのこ出向いていようとは思わなかったが……」


 睨み上げる定周へちらりと視線を流した慶長は、そこでわざとらしく扇をぱしりと閉じて、引き上げた口端をのぞかせた。


「安心しろ。そなたの叔父は心が広い。見なかったこととして不問にしてやろう。私が親王に呪詛をしかけたなどという、根も葉もない誹謗もまとめてな」

「誹謗って、叔父上、隠れて聞いていらしたんですか! 相変わらず人が悪い!」

「そこまで大声で叫んでいれば、ここにおもむく途中で聞こえてくるわ」

 噛みつく定周を呆れた様でいなして、慶長は春明と玄月へ目を向けた。


「さて、だがひとつ分かったことがある。私が春明を探していたのも、大きな問題が起きたゆえでな。定周がそこの陰陽師に頼み込んで、呪詛でも仕掛けて来たのかと思ったのだが、どうやらそれは違ったらしい」

「呪詛を疑うとは、穏やかならぬことですね。なにがあったのですか?」

 眉をひそめる春明に、慶長の顔から笑みが消えた。


「――藤壺が、血と羽根を吐いた」

 どこか泰然と余裕を漂わせていた声音が、重く、冷たく沈む。


「昨夜のことだ、急に咳が止まらなくなったと思ったら、血を吐いて倒れたらしい。私が駆け付けた時には、もう意識はなかった。そしてその吐いた血のうちには、黒い烏の羽根のようなものが混じっていた。女房どもが恐れて触れも出来ずにいてな。そのまま掃除もされずにあったので、私も目にしたが……――あれは、いかなることだ、春明。ちまたで流行る病の噂は聞き知っているが、こうも一息に容体が悪くなるものではなかったであろう?」


 慶長は骨ばった手のひらで顔を覆った。その滲み出る焦りと不安を隠そうとでもいうように。


「まさか……藤壺中宮もそのような目に……」

 呆然と、定周が見たことのない憂いをたたえた叔父を見つめ上げる。

 困惑と失意に澱んだ空気に、春明は玄月を振り向いた。その意を察して彼が頷いたのを受け、すっと威儀を正して、藤氏とうしの二人へと向き直る。


啓上けいじょうが遅くなり、申し訳ございません。今朝方星を見た際、大きな異変が現われておりました。大樹帝の添え星が、その威光を奪うかのように、輝きを増していたのです。御代を揺るがす反乱の予兆と、私も玄月も読み解いております。親王と中宮――お二方の身に起きた異変も、その謀反を試みようとしている者の仕業かと」


「謀反、だと……!」

「して、その口ぶりは、その不届き者の心当たりがすでにあるようだな?」

 おののく定周に、慶長の落ち着いた声が重なる。春明を睨むように見る眼光は、鷹のように鋭い。静謐で重厚な威圧。

 しかし、それに気圧されることもなく、春明は己を見下ろす慶長を仰いだ。


「それは――」

 紡ぐ、その先を――突然の地鳴りが遮った。


 大地から突き上げるような振動が、邸の柱を、床を軋ませ、震わせる。几帳きちょうが倒れ、長櫃ながびつが揺れ動き、柱にひびが走って、屋根が崩れ出す。立っていられぬ激しい揺れに、誰もが膝をついた。頭を掴んで揺すられるような感覚に、めまいを覚える。


 と同時に、轟音が耳朶を強烈に打った。ひび割れ、崩れるいわおの音。驚いてきざはしの続く庭へと目をやれば、地面に亀裂が生じていた。そこから――充満しきった《澱み》の気配がする。


「まずい!」

 とっさに懐内ふところうちから取り出し滑らせた何枚もの春明の符が、亀裂の上に整然と列をなし、星の印が現れ出でる。瞬間、眩く爆ぜる光の衝撃とともに、あふれ出しかけた黒い《澱み》の瘴気は、札によって地割れの底に封じられた。だが、それはあくまで彼らのいた庭先だけのこと。


 低く唸る悲鳴のような風切り音が空気を震わせたかと思うと、《澱み》の渦巻く黒い濁流が、都中からあふれ出て天を突いた。

 黒い濁流に包まれて、青く澄んだ空が赤く濁る。腐った血肉に似た、暗い赤だ。そこからはらはら、なにか黒いものが雪のように舞い落ちてくる。


「――烏の羽根だ」

 射干玉の目をすがめ、ぼそりと玄月が呟いた。

 少なくとも、都全体が――もしかしたら、それ以上の地が、揺れ轟いた大地から噴き出た《澱み》のうちに、とり込められていた。


「瑞兆の黒羽根が、なぜ、こんな不吉な空から……」

 震える定周の唇から疑念がこぼれる。それに、慶長が皮肉を口端に滲ませ、引き上げた。


「天帝の還御かんぎょか。なるほど、なれば大樹帝はその地位を脅かされる。御代も終わりということだ。我が一族の安寧も、な。いまや神などはるか遠く、ここは我らが都だ。もし天帝が戻られるというのならば、それはもはや我々には、凶事に等しいことかもしれん。だが……春明、よもや、そんな神代の戯れごとが、まことになったとは言うまいな?」


「――天帝など、もうおりませんよ」

 春明が口を開くより先に、そう、涼やかな声が答えた。天の星抱く切れ長の瞳が、慶長を静かに見上げる。

「ただ、それに等しきものが、現れるかもしれないだけです。まあ……――させませんけどね」

 そこでふわりと黒い双眸は、春明を映して微笑んだ。


 ぱちりと指を弾くと同時に、揺れでところどころ壊れかけた邸のどこからともなく、数人の童子どうじの影が駆け寄ってきた。手にした薄紅うすくれないの直衣を瞬く間に主へと着せ付ける。


「ともかく、いまは大樹帝の元へ急いだほうがよさそうだ。一応ここは安全ですので、おふたりはここにおいでください。あ、ご不安なら、春明を残してきます?」

「おい」

 満面の笑みとともの提案に、春明は苛立ちを投げかける。


「いまのお前をひとりで行かせられるか。自分の病身びょうしんを自覚してるのか?」

「病身? 玄月が? これほど無駄に元気を有り余らせているように見える男が?」

 眉をつり上げる春明に、定周が首をひねる。いたって健康そうな見た目、身分を顧みない調子づいた言動――そう、定周の目には映っているのだ。


 いまだ己を覆う虚勢の術を取り払わない玄月を春明は睨むが、彼は見逃してよ、とばかりに肩をすくめただけだった。


「俺としては、君こそあまり、行かせたくないんだけどね」

 その身のうちに宿すものを、忘れたわけではないだろうにと言外にいう。しかし春明は、お互い様だと首を振った。

「言い合っても埒がない。共に行くぞ」

「ま、仕方ないね。確かに……俺一人じゃ、流石に心もとなかったし」


 瞬間、ふわりとふたりの足元に白い光が輝いた。かと思うと、それは見る間に膨れ上がって、ふたりを背に庭を駆け抜ける青毛の馬へと成り変わった。


 二頭の馬はひと蹴りに庭の池を超え、塀を飛び、見送る慶長たちの視界の内から瞬く間に駆け去っていく。

 赤い澱んだ空の元。春明と玄月は大内裏だいだいりの方へと、風のように走り飛んでいった。



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