異変の瑞兆(1)

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「どういうことだ! 玄月!」

 荒々しい足音ともに踏み込んできた人物は、そこに春明の姿を認めて目を剥いた。

「どうしてここに、安倍春明がいる!」

「あ、このくそ切迫した事態にくそややこしい人が」

「口の利き方! そなた、雇い主をなんだと思ってるんだ!」


 だんっとひさしを踏み鳴らすのは、荒々しく幼稚な仕草に反し、麗しい見目の貴公子然とした青年だった。烏帽子えぼし狩衣かりぎぬという軽装だが、あかの染めが鮮やかな生地と、糊のしっかりきいた布の張りが、裕福な身の上を示している。

 藤原定周ふじわらのさだちか――玄月の謹慎中の主、その人である。


「ご無礼をいたしました。しかし、定周殿は、私の忠言をきれいさっぱり無視して暴挙を働いたせいで、ご謹慎の身の上であらせられたのでは? それがこのような、言葉を聞くほどでもない卑しい陰陽師風情の我が邸にどのようなご用向きで?」

「言い方の棘! そなた、私が謹慎をくらってから露骨に包み隠さなくなってきてないか?」


 慇懃無礼の手本のような玄月に、振り回され気味に定周は歯ぎしりする。哀れに過ぎると、春明は純粋な憐憫の目を向けてやった。

 それに気づいて、定周はきっと春明を敵意と涙交じりの視線で睨みやる。が、次には身も世もなく玄月の膝に縋りついた。


「さては、そなたも私を捨てて、叔父上側にくみするつもりか! そなたに頼るしか、ないと! 謹慎の身を振り捨てて来たというのに! この裏切り者が! 薄情者が!」

「そこは誤解です、誤解。別に慶長よしなが殿に与しようとか思ってませんよ。というか、いつになく情緒が乱れてますけど、本当に、どうされたんです?」


 膝が濡れて汚れる、とばかりに遠慮なく定周を引っぺがしながらも、声音は優しく玄月は尋ねる。零れ落ちた涙を惜しげもなく袖で拭いながら、定周は凛然としたかんばせを、面影がないほどくしゃりとゆがめた。


「親王が……昨夜から血の気のない顔をして、目覚めない……」


 悲嘆とともにぽつりと落ちた言葉に、一瞬緩んでいた空気が、瞬時に焼けつく痺れを帯びた。目を覚まさないというのは、生まれて間もない、桐壺皇后の元の男宮を置いて他にいない。つまりは、星が翳りを示した大樹帝の後継者だ。


「一見穏やかにしているのだが、ゆすっても、声をかけても、なにをしても目を開かぬ。すぐさま呼びつけた典薬寮てんやくりょう医官いかんも匙を投げた。陰陽寮の陰陽師の祓いの儀も効き目がない。先に御幸みゆきを受け、ようやく父帝ちちみかどにも抱いてもらえたというに、このまま儚くなっては、帝にも顔向けできん! 叔父上の差し金で、春明めが呪詛でもしたのなら、対抗できるのはそなたしかおるまいと訪ねてきたというのに……。その頼りのそなたが、よりにもよって安倍春明と……!」


 そこで定周の声は涙に変わった。親王の容体は間違いなく心配なのだが、この定周の有様はあまりに面倒だ。そう、玄月と春明の視線が無言のまま重なった。


「定周殿……別に私は親王を呪詛などしておりません。慶長さまにとっても、親王は縁少なからぬお方。血族の安寧を願う慶長さまが、呪詛など望まれるわけもないでしょう」


 形ばかりの丁寧な慰めを、一応の礼儀で春明が泣き崩れる肩にかければ、定周は泣き顔をあげて、ふんっと強気に鼻を鳴らした。


「そんな心無い言葉に騙されるか! そなたこそよく知っておろう。叔父上の大事な血族は、己が直系のみ。私や親王は入っていないどころか、邪魔者扱いだろうよ!」

「まあ、それは確かに反論できない」

「玄月……お前、事態を収拾したいのか? したくないのか?」


 忌々しげに言い捨てる定周に、思うがままに玄月が頷く。春明は冷たく釘を刺した。

 そこへ――低く別の笑い声が重なる。


「言いたいように言ってくれる」



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