未来の夢
まるで獣の腹のうちだった。
揺れに倒壊したあばら家や、屋根の崩れた邸の数々が虚ろに続く
黒の瑞兆。だが、こんな凄惨な光景に注がれる祝福があるだろうか。
清涼殿の東庭へ蹄を打ち鳴らし、躍り出ると同時に、青毛の馬が光と消える。降り立ったふたりの陰陽師がともに見上げた先――壮麗な
衣擦れの音を奏でるのは、
金色の双眸が、白刃のような鋭く麗しいかんばせのうちで細められ、紅い唇が引き上がった。
「待っておったぞ、
「やはり貴様が元凶か」
「久方ぶりにまみえる母に、ひどい言い草だのぅ。育て方とやらを間違えたか。人と交われば交わるほど、その違いを感じ、孤独を深め、己と似て非なる人間どもの矮小さを蔑み、憎むようになると思うていたのだが……。よけいな友など作ってしもうたのが、悔やまれる」
化生の言葉が辿るのは、もしかしたら春明が行きついたかもしれない未来。
確かに、師という寄る辺はあっても、途中まで春明は、己をどこか、人の世にいてはならないモノだと思っていた。
決して、交われない、寄り添えない。そう、いつも心の片端で、思い詰めて生きていた。
(それなのに――……)
――君の孤独の、よき友に。
(私がナニか知ってなお、そう、事もなげに手を差し伸べる奴がいたから――)
いて、くれたから――。
その手が、春明を今日、母の隣ではなく、彼の隣に立たせている。
相対して己を睨む息子へなにを感じているかは知らないが、白狐はふたりを見渡すと、鈴の音のような笑い声をこぼした。
「だが、そのような死に損ない、連れてきてなんになる。おぬしも物好きじゃのぅ。大人しく横になり、死を待つ方が楽であったろうに」
「残念だけど、俺、友に出来る助力もせず、のん気に寝てるなんて考えられない男でね」
「助力? 助力か。その弱りきった身体で笑わせる」
さも楽しげに艶やかに、妖狐の口端は笑みに崩れた。
「それに吾子の力になりたいというのなら、無駄に抗いなどせず、早うその病に喰われるがよかろうよ。さすれば吾子が――新たな帝となる」
うっとりと蕩けた、妖艶な金の瞳。それを驚きなく、春明は苦々しげに視線で突き刺した。
満ち足りて笑み歪む口元へ、しなやかな指先が添えられる。
「さすが吾子。感づいておったか」
「再び私の身をのっとり、
吐き捨てる春明に、白銀の
「そのようなことはせぬよ。母とは、子を慈しみ、その大成と栄華を願うものなのであろう? わらわは、母という営みを堪能してみたかったのでな。せっかくならば、その栄華はこの世の
春明に注がれる金色の眼差し。蕩けそうな愛おしさを装ってみても、その底にあるのは、嗜虐の快楽だ。美しいからと蝶の翅をもぐように。可愛らしいからと、赤子の爪をはぐように。
なにかへ好ましく抱いた思いを、悪逆で注ぐ。まさしく化生の
「そなたの友の得た病は、いずれそなたに力を与えよう。病は、かかった者の身体を削るゆえな。人の身はか弱いが、その器は
言祝ぐようにはしゃぐ化生の声に、春明はぎりりと奥歯を噛みしめた。
己が身に勾玉が宿ったと知った時点で、ある程度、予測はしていた。この身に何か、変異を起こそうとしているのだろうと。それが、彼の身をなにより強い化生とし為すことであったわけだ。春明を、この世を統べる帝の地位につけるために。
「笑わせる」
春明は吐き捨てた。
そんなことのために、この眼前の狐の化生は、数多の命を軽々と奪わせてきたのだ。そんなことのために春明は、友の首に失意とともに
そんなことのために――玄月は、病に倒れようとしているのだ。
「たとえ貴様の目論見が叶い、私が化生と成り変わったとて、帝の地位にはつけまいよ。大樹帝の血脈は神代の名残。神々の威光がこの地を離れ、遠くかぼそい星明かりとなったとて、植え置いた御垣の根は揺るがない。大樹帝はこの国土の要石だ。貴様がかように国を騒がせ、乱し、追い落としたところで、その空位に化生の子など据え置いても、帝位は三日と保つまい」
帝の座とは、誰もが座れるものではない。王の権威と責務を託された血というものがある。それこそ、天の神々が定め置いたかのように、歴代の大樹帝には、世の
だが、この世の
「いやいや、そうはならぬよ。吾子もなれる。妾がそう造った」
怪訝そうに寄る春明の眉を、化生は心地よげに見つめた。
「そなたの半身は、大樹帝の血を引く」
思いもかけぬ言葉に、春明の表情が凍りついたのをみとめて、整った唇は艶やかな笑い声を奏でた。
「正確には、死した帝の血じゃがな。ほれ、少し昔に、都を旧都へ戻そうと企てた
ちらりと妖狐の視線が、玄月にかかった。春明が振り向き見たその横顔は、真摯さに覆われ、常の笑みはない。
それで――春明はそれが、過ちのない事実なのだと思い知った。
彼の身のうちに、八つ勾玉があった理由もそれでわかる。七つは集めたもの。残るひとつは――元から春明のうちに潜んでいたのだ。化生と死人の血を混ぜ合わせ、生きた人に似た器を造り上げる、繋ぎとして。
「なるほど……さすがのお前も、言葉を選びたがるわけだ」
自然、口端にのったのは、乾いた苦笑。己が身は、半分化生、半分人間。そう思っていたが――
「死人と化生の子か」
己の手のひらへ、春明は視線を落とす。生まれてすぐ、兄弟を裂いた手。血に濡れた手。そうしなければ、偽物の人の形すら保てなかった、異形の生まれ――。
「半分人ですら、なかったか……」
なにを持って、自分の半分は人間だと、油断しきっていたのだろう。化生の子として、ただ人なら有り得ないはずの血に濡れた生誕と、異様な成長をしておきながら。
(陰鬱な生き物だと、思っていたくせに――)
己がことながら、情けなくて笑えてくる。そう自分を卑下しながらなお、半分人であることを疑えずにいたのだ。
化生の
だが、それを遮るように、ふっと隣から腕が伸びた。
「君がそうやって思いつめそうだから、うまい言い方を考えてたの。でも、もういいや。伝えたいことだけ言わせてもらうよ。いいかい? どんな出自だろうと、君の魂は、まごうことなく、俺と一緒」
手を取られ、引き上げられたのにつられて、顔上げる。同じ視線の高さで重なり合うのは、夜空の射干玉。それが、煌びやかに飛び込んできた。
「そんな暗い顔で見てやるなよ。この手、俺は好きだよ」
ふわりと清涼な風が一陣、吹き抜けていった気がした。
息苦しさを切り裂いて、華やかに笑う。その笑みに見覚えがあって、春明は記憶を辿った。
(ああ、そうか、あれは――……)
いくども繰り返した夢を、思い出す。暗く澱んだ血濡れの夢。呪われた生まれの夢――。けれど、彼と出会ってから、夢の目覚めはいつも、その微笑みで終わりを告げた。あの夢の中でも、彼は自分と同じだと春明の手を取っていた。
(――未来を、夢見た……)
淡く、喜色の滲む苦笑がこぼれた。
「まったくお前は……こんな時でも、変わらないな」
だから俯いてもまた、春明も前を向ける。
それに満足したのか、玄月も得意げにその唇に引いた笑みを深くした。
「君が生まれて、育ち、勾玉を持つ化生たちが現れて、星が翳った。そこまではきっと、思惑通り。でも君は、俺と出会ってた」
陰陽示す太極の図のように繋がれた手。それに、ふわりと力が籠められる。
「だから、君は帝にならない。君は帝の添え星ではなく、俺の双璧である陰陽師。そうだろう?」
そこには口先だけの鼓舞ではない、揺るぎない確信が込められていた。
その真っ直ぐさが頼もしくあるはずなのに、一抹、ふっとなにか、寂しさに似た不安が春明の胸を鋭く突く。
しかし、それの正体を春明が掴み切る前に、たおやかな声が思考を遮った。
「されど、吾子の身には勾玉がある。おぬしひとりがそばにいるだけで、なにができようぞ」
悠々と勝ち誇った声は、陰陽師たちを見下ろして、金色の双眸をいっそう細めた。
「吾子は帝となる。人の手からこの世を奪って。《澱み》蠢く、化生の世として統べようぞ。それは、妾だけが望むのではないのだからのぅ。いかに妾の力があるとはいえ、この世は仮にも、大樹の帝が化生より守る場所。化生を排する力は持たずとも、かの血筋が
赤く爛れた空に、涼やかになびく銀糸が首を傾ぐ。
確かに今、この世は、まるで
人の命に終わりがあるのは、この世の掟のうち。それを無理やり摘み取る所業であったとしても、世に起こるはずのない、無理を為しているわけではない。
だが、この世から人間を
それをし為せると、美しい化生は笑う。
「吾子。そなたがそやつを友と呼び、出逢いを尊ぶならば、妾も同じよ。目的を同じゅうする友を得た」
怪訝げなふたりの視線を心地よく受けて、その顔は右手へそっと向けられた。その先は、大樹帝の祈りの間だ。朝夕に、天帝へと拝礼を行い、世の安寧を願う場所――。
「……安寧を……?」
気づくより先に、春明の唇からそうこぼれていた。
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