《参》 芦屋玄月トソノ師ノ過去ニ纏ワル幾ツカノ事

陰陽の師(1)



 芦屋玄月は、ひどくつまらなそうに世を睨み据える子どもだった。


 物心ついた時には、その目にはこの世ならざらぬモノたちが見えていた。だからソレは誰にも見えるモノと思っていた。だが、父母に話しても信じられず、じきに偽りでないと分かると疎まれだし、ソレらは見えてはいけないモノなのだと知った。


 かといって、ソレらと親しむということも、考えられないことだった。いずれ下等な化生だと知ることになるソレらは、常に玄月を痛めつけようと狙っていた。なぜか己に群がってくるソレらは、玄月が手で払えば消えていく。なので幼い時分は、忌々しく思いながらも、なんとか無事に過ごしていた。だが、いつもどこか気が立っていたとは思う。


 這い寄ってくるソレらをいらいらと睨みつけ、忌々しげに振り払い、踏みつける。そんな玄月の姿が、何も見えない他の子や村の大人たちに異様に見えたのは当然で、彼に近づこうという者はいなかった。


 父母には恐れ交じりに疎んじられ、村人からも気味悪がれ、ひとりでいることが多かった玄月は、自然、無口で、そのくせ癇癪もちで、笑わない子どもになっていった。

 そんな彼に転機が訪れたのは、数えで七つの頃だ。


 産まれてすぐは、どの子の目も、ほぼ明暗しから分からぬという。それが育ちゆくにつれ、じょじょに視界が広がり、見えるものが多くなるのだそうだ。そうして、瞳が完成するのが、七つの頃だという。

 幼子なら誰にもある成長。だが、玄月のそれは、やはり普通の子とは違った。見えてはいけないモノが、より多く、よりはっきりと、見えるようになってしまっていた。


 そしてそれにつられるように、明らかに玄月をつけ狙う異形たちの質も変わってきた。大きくなり、禍々しくなり、凶暴になっていったのだ。手で払う程度では消えなくなり、玄月は怪我をつくることが増えた。


 命の危険を感じ始めたのは、その頃からだ。そしてある日、最悪の事態が引き起った。


 いつも通り行く当てもなく村の片隅で時間を持て余していた玄月が、家へと仕方なく帰ってきた時。父母や年の近い弟たちの姿はそこにはなかった。ただ、少し前に生まれたばかりの妹が、ぽつんと板間に転がされて寝ていた。


 まだ寝返りもしない赤子をひとりにすることは、珍しくない。村のそこここで見かける光景だった。だから時たま狐や犬に喰われそうになるのだと、玄月はその有様を冷めた目で見やり、父母のいない隙に食料を漁ろうとそのまま土間の奥へと足を向けた。


 その時だ。土間の片隅でぐるりと黒い影が蠢いた。ぎくりと身を固めたがもう遅く、巨大ないたちのような化生が、三つ目をぎらつかせて玄月の肩を切り裂いた。

 鮮血が散り、激痛に玄月が叫んで倒れ込めば、その騒ぎに妹が大きな声で泣き出した。


 耳をつんざく、赤子の声。それに、うるさいと玄月が舌打ちして振り返るのと、化生が長い首をもたげるのはほぼ同時だった。

 ぎらりと三つ目が不穏に光る。次には、鋭い爪もつ脚は、土間を蹴って妹の方に躍りかかっていた。


 玄月の瞳以上に、生まれたての、まだ瑞々しい命に惹かれたのかもしれない。いまならそう思えるが、その時はなにもわからなかった。


 ただ、うるさく泣くばかりの、玄月のことは見向きもしない父母に可愛がられる妹が、このままだと死んでしまうと、そう、思って――

 玄月は駆けていた。妹を庇って覆いかぶさる。その背に焼け付く痛みが走り、着物が赤に濡れそぼった。それでも、こんなどうでもいいと思っている妹を、見捨てることがなぜかできなくて、玄月は化生へとあらゆる物を投げつけ、叫びながら、必死に守り、逃げ惑った。


 結局、どう祓えたのか、いまもなお分からない。元より陰陽の素養はあったから、術を知らないうちでも、下等な化生は腕で払うことで退治できていた。だが、あれは並みの人間にとってはそこそこ力の強い化生だったはずだ。陰陽術の基礎もままならない子どもが、なにをどうして倒せたのか、いまだに謎である。


 けれど玄月は、妹の命は守りきったのだ。己があまたの傷と――泣きわめく妹の片目と、数本の手の指先を犠牲として。


 血まみれの玄月と赤子を見て、戻ってきた両親は血相を変えた。まだ小さい赤子の痛ましい姿に、嘆き憤る父母の気持ちは、玄月へと向かった。化生の話は――妄言として相手にされなかった。嘘ではないと分かっていても、嘘にしてしまいたかったのだろう。手におえる範囲にぶつけて、怒りと嘆きを片付けたかったのだろう。


 妹が負った傷は、玄月のしでかしたこととなった。そういうことにして、もういい加減、気味の悪い子を、どこかへ追いやりたくなってしまったのかもしれない。


 玄月は己が負った傷が治りきるの待たぬうちに、山をひとつ越えた向こうの、さらに奥深い山のうちにあるやしろに預けられることになった。

 母の背を沈黙のまま追って、社の古びた、ところどころ朽ちた鳥居をくぐる時には、玄月はもうすべてがどうでもよくなっていた。どうせなら、あのいたちに似た化生に殺されていれば良かったと思っていた。


 だがまさしく、その鳥居の先が、転機だったのだ。


『おお、おぬし! つまらぬ顔をしているなぁ!』


 玄月が預けられたのは、社とは形ばかりで、とうに正規の神職はいない、変わり者の神官くずれがたったひとり住んでいる場所だった。その変わり者のあるじは、母がそっけない挨拶のみで玄月を捨て置いていくと、豪快に笑って、玄月の頭を大きな手で撫でた。ぽつんと取り残された、無表情で生気のない目の子。己を見るともなしに眺めていたその子どもの小さな頭を、あたたかな手で優しく撫でた。


『たったふたりだ! そうつまらぬ顔をせず、楽しくやっていこう!』

 大柄で、体躯がよく、頭は剃り上げてある。太い眉のなかなか見目の凛々しい男だった。


『そなた、名はなんという?』

『……しゅう

 近ごろまったく呼ばれた覚えのない、唯一親から残された幼名ようみょうをそっけなく告げる。それなのに男はなにが楽しいのかにこにこ笑いながら、何度もうなずいた。


 玄月を映しとるのは大きな射干玉の双眸。そのうちに、真昼だというのに、まぶしく星の瞬きが煌めいているようだった。


『そうか、そうか。わしは松玄しょうげん。よろしく頼む!』


 それが――玄月の陰陽の師、芦屋あしや松玄しょうげんとの出会いだった。



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