陰陽の師(2)
温かい夕餉を誰かと食べたのは、玄月の記憶のある限り、
ささやかでつまらぬ、無駄な時間。けれど、心の片端に
松玄と積み重ねゆくことになるその時間の始まりが、その日の夕餉だった。そう、いまにして玄月は思う。
それからのち、ぽつりぽつりと玄月から返す言葉も増えていき、箸の持ち方にも苦労しなくなった、ある日の夕飯時。ようやく気づくことがあって、幼い彼はこぼしたのだ。
『……そういえば、ここに来てから、化生を見ない……』
教えられたわけではないが、化生が見える子と疎まし気に囁く声を聞いていたので、それが己を襲っていたモノの呼び名だとは知っていた。だが――
『ん? 当然だろう。わしの結界があるからな』
『けっ、かい……?』
『うむ。実はわしは神職というよりは、その実、陰陽師でな』
細い眉を小さな眉間へ寄せた玄月へ、とっておきの秘密のように松玄はささやいた。
陰陽師という存在を、玄月が初めて知ったのはその時だ。そして、己が持って生れた瞳の意味も、教えられた。
魔性を魅入る、輝き抱く射干玉の瞳。七宝を溶かしたように、螺鈿を散りばめたように、艶やかな黒の奥に星々の綾と綺羅を閉じ込めた蠱惑の瞳。
化生が惹かれ、ものにしようと付け狙うほど、陰陽の力を宿した瞳なのだと、松玄は言った。
『だからだろうな。普通ならば見えぬモノも、たやすく見えることがある。わしの目もそうだ。お主の方が、より輝きが多いようだがな。だが幸いにも、お主は術師としての素養もあるようだ。鍛えれば、わしよりずっと優れた陰陽師になろう』
松玄は頼もしげに笑ったが、玄月はとても喜ぶ気にはなれなかった。優れた陰陽師になれることに、魅力は感じなかった。そんなことより、ただ、普通の瞳であればどんなに良かったろう――と、それだけを思った。
いつもひとり暗く寒い家の片隅で膝を抱えていた。あの涙で凍える孤独も、味わうことがなかったのではなかろうか――。
『――父さんも母さんも、それに兄弟も……誰も俺と同じ目はなかった。なんで、俺だけそうなったの……?』
『ん~……それはもう、天運だな。親から子へと受け継がれるものとはまた違う。天が選んで授けるものだ』
『だとしたら……俺も、あんたも……ずいぶん運なく生まれたんだね』
暗澹と流れる子どもらしからぬ声音を静かに聞き入れて、松玄の大きな手は玄月の頭をなでた。
『そう言うな。確かに、よくないモノも多く見える。それゆえに嫌な思いをすることも増えよう。だが、代わりのいいこともある。例えば、こうしてわしと、出会えたではないか』
差し込む夕暮れの日差しが、晴れ晴れとした笑顔を柔らかなだいだい色で照らしていた。魔がはびこり出す、逢魔が時。この時間帯の入日の色を、あたたかい色だと思ったことがあっただろうか。思わず、その笑みと、その中でひときわ眩く細められた双眸を見上げて息を詰め――しかし、玄月は頑なにぼそりとこぼした。
『……それ、いいことなの?』
『違うのか?』
『あんたのその自信、どっからくるのか、よくわかんない』
そう言い捨ててすすった松玄手製の山菜の汁物は、けれど、とてもおいしかった。
『あんたではないぞ。松玄兄さんと呼べとあれほど、』
『兄さんってほどの近い年でもないくせに』
遮って反論すれば、その生意気さを松玄は心地よげに笑った。
『よし、ならば、師匠だ! 師匠と呼べばいい。なぜならこれから、おぬしに陰陽師としてのあらゆることを教えるのだからな!』
『は? そんなこと、頼んで、』
『楽しみだな!』
そう、豪快な笑い声とともに押し切られた。
それからの修行の日々は、思いのほか大変だった。松玄は褒めて伸ばす方針の男で、叱咤されることはほとんどなかったが、科す修行はにこやかな言動に反して重たく厳しかった。玄月は文句をたれる余力すらなく、歯を食いしばって修練させられた気がする。そのおかげで、いまや陰陽の道が玄月の身を守る術となり、生きる
それに――ただ、陰陽師として生きるわざだけを、教えられたわけではなかった。
『楽しく生きろ』
それが松玄の口癖だった。事あるごとに、そう磊落な笑顔で玄月の頭を大きな手で撫でた。
『その目のせいにして、人生を無下につまらなくするな。我らが生きる御垣の世は、とかくままならぬ事も多いが、楽しむことはできる。刹那を享楽で費やせということではないぞ? 明日を望んでこその楽しさだ。例えば、次の年の花のために今少し頑張ったりしてみるだとかな……楽しく明日を生きようというのは、そういうささやかなものよ』
松玄がそんなことを言っていたのは、彼と過ごして何年経った頃であったか。山桜の散り際を眺めていた玄月にかけた言葉であった記憶がある。確かあの日は、近くの里の化生を祓いに勇んで出かけたはいいものの、玄月の目を狙い、より強い化生まで呼び寄せてしまったのだ。そのため手痛い敗北を期しそうになったところを、松玄に助けられたのである。そんな日の夕暮れだった。
この目さえなければ上手くやれたと、悔しさでふてくされ、恨めしげな顔でもひっさげていたのだろう。あの時は、松玄の言葉を素直に聞けなかった自分を覚えている。
しかしそうやって、何気ない毎日に、松玄は積み重ねていってくれていたのだ。不満に唇を尖らせた日も、心地よさにあえて爪をたてて試した日も――いまにして振り返れば、どれも松玄と過ごした楽しい時間の彩りになっていた。
いつか、彼と別れることとなった時に、それが明日を見つめる糧となるように――そう、積み重ねていってくれていたのだ。
七つで松玄と出会った玄月は、やがて同じだけ時を重ねて、ちょうど十四になろうとしていた。
その年が、松玄と過ごす、最後の年となった。
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