望月の欠けたることも
◇
弱々しい灯火が、うっすらと暗闇に揺れている。だがそのか細い光では到底、周囲を覆う闇は払いきれない。
ちらちらと生温い夜風に揺れる火がぼんやりと照らすのは、ぽつねんと
不自然な寂寞。重たく熱したままの空気が、じっとりと肌に、呼吸に、圧し掛かる。
しかし不意に、涼やかな衣擦れの音が、その重苦しい静けさを裂いた。するすると長く裳を引いて、どこからともなく現れたのは、闇夜でなお煌めきをこぼす、白銀の長い髪持つ
ふわりとまろく形のいい眉、月光を盗み取ったかのように金色に輝く双眸は、美しいが畏怖を覚える冷たさがあった。
「
「おやまあ、お耳が早い」
ついと背後に座した彼女へ、低く柔らかな声が振り返らずにかかる。紅もささぬのに
「
「よい。十分、事に足りるだけのモノは得ただろう。多くを求めて、無用に民草を脅かすことはない」
「お優しいお言葉。ゆえに貴方に託した勾玉も、あまた人を殺めてなお、清廉であるのでしょうね」
振り向かない男の言葉に、白露は品よく笑い声をたてた。微か凍りついた彼の気配も、気に留める風はない。
男は怒るではなく、小さく嘆息した。麗しい人の姿を得ていても、相手は化生。そも、その妖しく艶やかに整った姿形は、彼女が喰らった無数の命で得たものなのだ。そんな相手に、
彼女が彼の前に現れたのは、そう昔の話ではない。数年前。ちょうど、藤壺中宮が女御として入内したころだ。
男に宿った、胸裏を焦がす焔がごとき願い。それに応えるかのように、彼女は現れ、その成就を必ず遂げられる方を授けると言ったのだ。
それが、彼女の手にしていた八つの瑠璃色の勾玉だった。
化生に勾玉を与え、育み、多くの人を屠らせて、その《澱み》と身に宿る陰陽の力を集める。そうすれば、彼女は
『さすれば、その力で、貴方の願いも叶いましょうぞ――』
柔らかく微笑む、白銀の佳人。夜の闇の中、薄明りを衣のように纏う姿には、抗しがたい美しさが宿っていた。
だが、男が彼女の手を取ったのは、惑ったからではない。
渇望が、男の迷いを飲み込んだのだ。
化生と共謀する躊躇。数多の人を苦しめ、殺めることになる咎の意識。それらは今なお、男を苛む。だがそれでもなお――
「……安寧を、得たいのだよ。私は。だから、そなたの策に乗ったのだ」
「貴方のような御身が、妾と目的を同じゅうしてくれて、嬉しゅうございますわ」
冷たい金色の瞳は、三日月のような弧を描いた。
「望月の欠けたることもなき御身でしょうに」
「――……月はいずれ欠ける」
化生の言葉は、言祝ぐというには賞賛がなく、皮肉にしては悪意がなかった。その真意を探るのも億劫で、男はただ空を仰ぐ。満ちるを過ぎた居待ちの月が、朧に輝いている。少し、雲が出てきたようだ。
「安寧を得られるのならば――欠けぬ月を望めるのならば……私は、この世の
「――そのための支度は、じきに整いましょう」
静かに、深く――男が吐露した揺るがぬ決意に、白露は実に満足げに、ゆったりと紅い口角を引き上げた。
「ああ、でも、その前に。吾子の友人という陰陽師。あれは、いささか目が良すぎます。――排しても?」
それは問いながら、判断を求めるのではなく、ただの宣言であることは明白だった。急く必要もないだろうと、男は己が手の中の勾玉に目を落としたが、止める理由もない。
男が短く、好きにすればいいと返せば、白い化生は口元に手をやり、柔らかに笑った。
「ええ、ええ、そうしますとも。吾子のためにも、面白きことを思いついたもので」
踊る声音を残して、白露の姿は、澄んだ鈴のような音と共に、瞬時に掻き消えた。
じんわりと重苦しい暑さの中に、静寂が戻る。じじじ、と
「――つくづく、天運のない男だ……」
白露がどのようなもくろみを持ったかは知る気もないが、趣味の良かろうものとは思えなかった。
無責任でも、憐れんでやることは許されよう。
彼女の息子の友になどおさまらなければ、もうわずか生き永らえ得ただろに――。
男は一時ばかりの憐憫を胸に、そっと掌の勾玉を握りしめた。
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