藤の支配者


  ◇


「春明」

 陰陽寮のろうに一歩足を踏み出したなり呼び止められ、春明は太めの眉を苦く寄せた。その顔のまま振れば、不遜な笑い声が響く。

 大樹に寄り添い巻き付く藤の一族――。その中でも最も位高い、一の人がそこにいた。


 陰陽寮に隣り合う中務省なかつかさしょうにでも赴いていたのだろう。官位の叙位じょいなどを掌る省であるから、用向きがあるのも納得はできる。だが、彼ほどの身分となれば、自ら足を運ばず、役人を呼びつければ事は済む。だというのに、気安くうろつくのだから、逆に迷惑というものだ。


「私を見てそう露骨に嫌な顔をするのは、そなたと定周さだちかぐらいだ」

「最近は、中宮も、と伺っておりますが」

「痛いところを突く」

 近ごろ娘の露骨な反抗期に手を焼いている慶長よしながは、されど機嫌がよさそうだった。


「定周殿が配流にでもなりましたか?」

「甥の不幸で私が浮かれていると思われるのは心外だ。配流は決まっておらぬよ、まだな」

 優しい叔父を気取りきらない声音は、「だが良く転びはしなかろう」と無情に甥の行く末を断じた。


「桂木も、これで少しは胃痛が改善するのではないか? ほれ、なにかと気にしていただろう。あの定周の使っておった田舎陰陽師を。そなたに並ぶ力の持ち主などと、一部の者たちの間ではもてはやされていたようだからな。しかしその実、そなたの目からはどうだったのだ?」


 ありふれた好奇心から慶長は尋ねているようだが、どうもその常の人柄から、裏を勘ぐってしまう。

 狡猾な蛇のような細い瞳を、春明はじっと伺いみた。


 一見ひょろりと瘦せて見えるが、重ねた直衣に着られることもなく、威風堂々とした様は、さすが都を牛耳る藤氏とうしの氏の長者だ。四十を超えてなお若々しい活力がある。

 望むものをすべて手に入れた者の高慢な余裕が、この男にはまた優雅に似合った。


「特段ご進言するほどのことではありませんでしたが、間違いなく、噂に違わぬ力は持ち得ていると思いますよ」

 春明の淡々とした答えに、慶長は意外そうに目を見開いた。


「ほぉ……それは思いもかけぬ……いや、ならばよかった」

 慶長の前でも歯に衣着せぬ春明の飾らぬ評は、一言で、玄月の実力を誤りなく彼に理解させたようだった。

「噂通り、双璧の名に恥じぬ術師だったというのなら、定周めが呪詛などけしかけさせる前に、余計なことをしでかしてくれたこと……天運に感謝せねばな」


 此度の定周の失態で、桐壺皇后の皇子の立場はおぼつかなくなった。ここで藤壺中宮が懐妊し、男宮でももうければ、それこそ満ち足りた、欠けることなき栄華を手中にできるだろう


「慶長さまの願い通り、事は進みゆきそうで何よりですよ」

「――そなたの目には、そう行く末が見えているのか?」


 心のまるでこもってない粗末な世辞を、そのまま流さず、慶長は悠々と湛えていた笑みを引っ込めた。


「私の願いは――我が血筋の安寧は、もはや揺ぎないものなのか?」

「……星見をご希望ならば、占いますが?」


 常の人を食った調子が抜け落ち、どこか切々とした面持ちを春明は訝った。だが、慶長はふっと口元を緩めて、首を振るう。


「……いや、よい。そなたのごとき星読みの術を持たぬながら、私は己が直感は信じる方でな。近ごろ妙に胸騒ぎがして落ち着かぬゆえ、つまらぬところが気にかかったのだろうよ。まあ、私が身の上の星見はよいが、殊、いま世情は不安定だ。行く末不穏の兆しあれば、すぐに奏上せよ」

「――承知いたしました」


 言うだけ言い置いて、春明の返答は背中で受け、慶長は去っていく。

 だが、ここ数年の都の有様を振り返れば、彼の不安ももっともだ。それに、運を味方に、比類なき栄達へと駆け上った男の直感というのも、安易に捨てる気にはなれなかった。


(だが――……)

 承諾はしたものの、春明にはいま、星は翳ろって見える。射干玉の夜空に煌めく、星の瞬き。それが意味するところを、読み取れない。


(――玄月に、聞くか……)

 漆黒に螺鈿を散らした星の瞳。春明よりも、ずっとよくナニカを見つめられる、不世出の黒。


 懐から取り出された符が、そっと吹きかけた吐息とともに曇天に昇って消えていく。


 今日は朝から、空は重く灰色が垂れ込めている。苛烈な日差しが一時遠のいてくれているのは助かるが、空気はいまだ熱を持ち、じんわりと湿度とともに纏わりついてきていた。

 呼吸のひとつも気怠く苦しい、いやな気候だ。


 雨に変われば、少しは涼しくなるだろうかと薄い期待を抱きつつ、春明は清涼殿へと向かった。狐の姿を見かけたと騒ぐ貴族が出たせいで、吉凶を占わせられたうえ、祓い清めの儀式を仰せつかってしまったのである。


(貴族連中はいつも事を大きくして仕事を増やす……!)

 腹を立てつつも、いつものように適当に占い、他の陰陽師に儀式を押し付けられなかったのは、怪異の主が狐であったからかもしれない。

(……よもや、な……)

 もはや夢でしか見ない白銀の影を振り払うように、春明は歩みを速めた。






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