春明邸で歓談を(1)

 

 ◇



 人が不在のはずの邸が、帰ったらなぜか人の気配に満ち溢れている。それにはとうに慣れた。慣れさせられた。しかしそれにしても、だ。


「態度というものがあるだろうが」

「悲しみに打ちひしがれる友に、なんたる言葉がけでしょうか。傷が深まる~。もう無理~」

「本当に悲しみに打ちひしがれている奴は、無断で人の邸に上がり込んで、勝手に飲み食いをしながら廂に転がっていたりしない」

「心の傷を酒と肴で埋めてたの!」

「人の邸でやるな!」


 ごろごろごろごろ、と廂を縦横無尽に男が転がる。それをひと睨みして吠え、春明はその有様を苦笑で見守る、もう一人の予定せぬ客人に、諦め交じりの視線をやった。


「お前もせめて、これを止めるなりなんなり出来なかったのか、子遠しえん

「う~ん、僕が来た時には、もうこの状態で出来上がってたからなぁ……」

 もっともな春明の言い分に、柔和な顔は困り気味に微笑んだ。


 すらりと長身な身に纏う、官人ではないゆえの簡素な麻の衣服は、質素だが内裏帰りの春明に比べるとずっと涼しげで、この蒸れる暑さにふさわしく見えた。淡い黒のふわりとした髪が、まだ眩く強い日中ひなかの陽射しに透け、茶色に溶けている。それを気軽に背でひとつに結わえただけの出で立ちが、冠を被り、貴人の前に出ることのない彼の身の上を示していた。


 彼は右京の片隅で薬師を生業としている。桂木に拾われ、仮にも貴族の列に名を連ねることとなった春明とは、違う場所で生きる者だ。本来なら、顔を合わせることすらかっただろう。


 それがこうして気を置かずに話しあえているのは、ごろごろと転がる男が、出会いの縁を結んだからに他ならない。官人でない玄月は、貴族の枠外の者が陰陽の術を必要とした時も、おおやけ各所への憚りなく応じられた。その関係で、まず玄月が子遠と親しくなり、春明と引き合わせたのだ。そしてそれは春明にとって、感謝すべき貴重な出会いとなったのである。


 とはいえ、背後でごろんごろんと鬱陶しい。結わえもしないせいで髪に顔が埋もれ、化け物のようになっている玄月を一瞥し、春明は子遠のそばに腰を下ろした。玄月が我が物顔で飲むよう促していたらしき、手のついていない酒杯が傍らに置いてある。

 正式な主として、春明は改めてそれを勧めておいた。


「それで、こいつは何に傷ついていることになってるんだ?」

「傷ついていることになってるんじゃなくて、傷ついてるの! もう駄目~おしまい~……」


 ごろごろと後ろを通過していった世迷い言には振り返らず、春明は強い眼差しで子遠からの答えを迫った。


「えっと、ほら、玄月の主人が、院が襲われて怪我した例の事件の首謀者だったとかいう話でさ。今後の行く末を案じてるみたい」

「ああ、あの一件か。首謀もなにも、立場よろしく裏で糸引くどころか、実行者だったんだろ」


 事と次第は少し前に遡る。長雨の終わりが見え始めた時分の話だ。産み月も近いのになかなか皇后に産気づく兆しがない。そう、周囲が少し気にかけ始めた頃。ある噂が流れた。


 いわく、近衛中将が桐壺皇后の元に通っている。此度の子は、中将との不義の子だ――というのである。しかも実際、中将から皇后への手紙を取り次いだ女房がいたらしいことが露見した。


「あの時の化生、内裏の裏に潜んでただけあって、内裏の秘密ごとに精通してたんだねぇ……って! あの時気付けるかよ!」

 去る春の日に思いを馳せて、玄月が悔しげに叫んで廂を叩いた。


 少将の君であった彼を誘いだした命婦みょうぶは、もちろん化生の生み出した偽物であった。だが、口実に持ち掛けられた懸想文の紛失話は、あながち嘘ではなかったのだ。


 燃え上がった噂の炎に、手紙の件はさらに薪をくべ、不義の子疑惑は瞬く間に内裏のうちに広がっていった。


 これに危機感を募らせたのは当然、定周さだちかだ。彼は生まれ来るだろう男宮おとこみやに、家の命運をかけている。噂の火消しと、血筋の正当性の証明に躍起になった。


 そんな折、皇后の里下さとさがりしている邸に、夜ごと通ってくる者がいるとの話が入ってきたのだ。


 それを耳にした定周は、怒り心頭。噂の元凶たる中将だと疑うこともせず、ある夜、武士を引き連れ邸に張り込み、訪れてきた相手の一行に矢を射かけ、乱暴を働き、ひっ捕まえた。

 中将を絞り上げて横恋慕だと認めさせ、妹の無実を証明しようとしたのだ。しかし――


「本当に、よりにもよって、出家した先帝が皇后の女房の元に通っているとはねぇ……」

「色好みの煩悩は、出家しようと捨てきれなかったわけだな」

 遠い目をした子遠に、にべなく春明は言い捨てる。玄月がじたばたと頭を抱えた。

「ほんと、迷惑! 大迷惑だよ! 俺の飯の種が~!」


 出家とは、世俗の欲を棄て、神職として神に操を立て、修行の道に入ったことを示す。つまり、出家後の色恋は、神への誓いが全くの嘘だったという、相当な醜聞になるのだ。おそらく先方も、なかったことで済ませたかったに違いない。


 だが、どれだけの醜態をさらそうと、仮にも相手は先の大樹帝。事が隠れてくれるはずもなく、定周は先帝に矢を射かけ、乱暴を働き、怪我を負わせたとして、不敬の罪を問われることとなった。いまは沙汰待ち――実質、謹慎の身の上となっている。



「大人しくしてりゃ、次代の大樹帝外戚の座が転がり込んできたかもしれないのに。もうこれ、秋の除目じもくを待たずにどうかなっちゃうでしょ~……」


 生誕前から良からぬ噂の渦中に取り込まれ、いらぬ騒動を引き起こされた御子は、先ごろ無事に産まれ出た。玄月の占ったとおりの男宮だ。大樹帝からは、早く内裏に戻るようにと催促があったらしい。だが可哀そうなことに、伯父の一件のため憚りが多く、父に抱かれるのはまだ先になりそうなのだ。一緒に里下がりしている姫宮も、父帝にはしばらく会えないだろう。


「官位ががくっと下がる程度なら、まあ、いいけどさ。事実上の配流みたいな処遇になったら、ほんと、俺の生活どうなるの~……」

「お前、詐欺紛いの行為でずいぶん貯めこんでるんじゃないか?」

「……貯められる人間は、最初から詐欺をせずに堅実に働くんだと思うなぁ……」

「期待を裏切らぬ大馬鹿者が……!」

 大の字で伸びた男の遠回しな散財の報告に、呆れきって春明は一喝した。


「お前の懐事情は半ば自業自得だろう。そもそも、こんな事態になる前に、適当な卜占の結果でも告げて、奴を止められなかったのか?」

「言いました~! 止めました~! なんか嫌な感じの占が出たから、俺、定周殿の馬鹿野郎に、『その日は重い物忌の日だから絶対邸を出ないように』って言いました~! それを破るからこんなことになる~!」


 春明の背後へ勢いよく転がってきた男は、どんと背中に体当たりを喰らわせると、さめざめと泣きまねをし始めた。

 すっかりいじけて手が付けられない。『面倒だ、どうするんだこれ』とばかりに春明は視線で子遠に問いかけたが、彼も困り顔で微笑むだけだった。





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