《弐》 逢魔ガ時ノ化生ノ人ヲ取リ籠メ屠ル事
血の夢
――血の夢を見る。
それはいつも決まって、生温い薄闇から始まる。満足に動かぬ四肢、茫漠と不確かな視界。ただ、引き裂く感触、鉄交じりの生臭い味。そして――
『よう、
柔らかで優しく聞こえる声が耳を打ち、気づくのだ。ここは、血の海だ、と。
突然、すべてが詳らかに眼前にさらされる。真っ赤に濡れた手が何をしたのか。赤の滴る口元が何を
しかと分からないうちに、幼い春明はいつも、その場を駆け出すしか己を守る術がない。
早く、早く、早く。この場から逃げなければと、駆けに駆けて逃げ出した先――。
『ごらん、春明。あれが
気づけば春明の小さな手を、まだ青年の頃の師が握り、夜空を指さしていた。
春明の師との記憶は、橋の袂、ひとり蹲っていたのを拾われたところから始まる。だが、この光景は、記憶のどこかにあるようで、一度も来たことのない場所だった。
ただ、どこまでも果てなく広がる葦の原。黄褐色の
それでもまだ、手がぬるい不快感にべたつく心地がして、春明が視線を落とすと、師が問うのだ。『どうした』、と。
そのまがわず優しい
『どうしたの?』
惹かれるように顔を上げれば、高く遠い夜の彼方と同じ瞳が、微笑んで見下ろしている。
いつの間にか、幼い彼の手を引く者は、師から友へと変わっているのだ。
それを不思議と思わないまま、少年の声は、小さく呟く。
『……手が、汚れている……』
『そうかい? 俺と同じだと思うけどね』
かがみこんで重なり合う星空の射干玉は、そう首を傾ぐと、華やかに笑った。
『君が生きてきた手だ。俺は好きだよ』
易々と請け合う頼もしさに、春明は息をのみ、彼を見つめ――そして、苦笑をもらすのだ。
『まったくお前は……』
握られていた幼い掌は、同じ大きさに。かがんで合わせられていた視線は、気づけば共に立って並んでいる。
『こんな夢でも、変わらないのか』
淡く喜色をこぼす声色が、耳慣れた低い響きを伴えば、夢はそこで終わりだ。暗く澱んだ血の夢は、夜風と星空に溶けて消え、朝を迎える。
それが、彼と出会ってからの――この夢の目覚めだった。
◇
(――都合の良い夢を見るものだ……)
まだ半分、夢の内に取り残されてきたような重い頭を抱え込む。
朝の光がぼんやりとした視界に眩く刺さる。すでに
春も過ぎ、
(このところ、立て続けに見るな……)
凶夢とも吉夢とも定まらないが、ただの夢でないことだけはわかる。師や玄月が、夢路を辿って会いに来ているわけでもないだろう。玄月は夢の通い路を辿るなら、
(いや、さすがにそういった下らん類の悲嘆ではないだろ)
師の悩みの種を、春明はいとも軽々しく切って捨てた。夢に通い甲斐のない男だ。
昨夜洗っておろしていた髪を、新たに結い直すのを式に任せながら、春明は難しい顔で思考を巡らせる。
(どちらかといえばあれは、夢路の類などではなく……)
春明の幼いころのおぼろな記憶を、歪に繋いだものだ。
春明は掌に視線を落としかけ、それを逸らすように額にやって、溜息をついた。
生まれた時のことを覚えている。
兄弟を裂いて生まれた。
腹が――減っていたのだ。臓腑の奥底が虚ろで、凍えそうに寒くて、寂しくて悲しくて辛くて、何かあたたかなもので満たしたかった。だからその時指先に触れた蠢く何かを、押さえて、裂いて、
血の海で、
そしてその瞬間、ふわりとよぎった柔らかな白銀が、微笑む声を聞いたのだ。『よう、為成したのぅ』――と。
とたん、ぞわりと全身が総毛だった。かの声を聞き続けてはいけないと、その一筋の思いだけで駆け出した四肢は、やがて両の足だけで地を蹴り、どことも知れぬ場所を抜け――師と出会った橋の袂に辿り着いていた。
(あれはおそらく……)
母の声だ。白銀の獣。美しい銀狐。
生まれ落ちた瞬間、人の子が息するために教えもしないのに泣くのと同じように、春明は自明のこととして、己が身の上を知っていた。人と化生の血が混じり合っていること。人ならぬ血が、顔を合わせたことすらない、母たる妖狐のものであるということを。
だが化生の血は、知っていたくもなかった母の存在を春明の身の内でがなりたてながら、他のことは何ひとつ、教えてはくれなかった。父が誰であるのかも。なにゆえ化生と人が交わり、子を生すに至ったのかも。なぜ母は生まれてすぐの彼に、兄弟殺しをさせたのかも――
(……まあ、それはおそらく、足りなかったから、なのだろうが……)
化生は、人の情の《澱み》を糧にする
そんな彼らを象る《澱み》は、そのうちに燻ぶった情念によって、人々を脅かす大きな力を与えるのだ。しかし、一方、偏った力のみで形作られた存在ゆえ、彼らは不安定なものでもあった。
だから、力を得た化生は、次に人を喰らうのだ。
人は、その身にも魂にも、
春明の母は、人と子を生せたぐらいだ。多くの人を喰らい、陰陽の力を取り込み、確かな肉体を得た、強い化生であるに違いない。だが、その子となれば、話は違う。
半分を人間、半分を強き化生を親として生を受けたのだとしても、しょせん異なる血を混ぜ合わせた、生まれるはずのない存在だ。肉体を保つことが難しかったことは、想像に難くない。
(だから、喰らいあうことになった……)
共に生まれた
(まるで、蟲毒だ)
化生らしい生まれ落ち方だと、春明は苦く唇をゆがめた。それに、生まれたてであるはずの己は、すぐに駆け出し、その日のうちに師と出会った時には、三つばかりの童の姿となっていた。およそ人の子らしい誕生の在り方とは程遠い。
髪を結いあげた頭上に冠をかぶせ、式がそっと春明の前に鏡を引き寄せる。そこに映る姿は、官人として人に交じり、公に仕える陰陽師・安倍春明に相違なく、血に潜む化生の気配を感じさせるものは微塵もない。
けれど、あの見えすぎる射干玉の瞳には、どう映っているのだろう。生まれたあの瞬間までも見透かされているとは思わないが、もしそうだとしても――
(こんな私を、なお、あいつは友と呼ぶのだろうか……)
血濡れた手を同じだと笑う彼は、都合がいい。己が願望なのだろうが、そう認めるのも情けなさに苛立たしさが勝った。
鏡の中の形の良い眉が、気難しげな面持ちの中、ひと際剣呑と顰められた。じとりと熱を帯びる湿った初夏の空気の中でさえ、鋭く整った目鼻立ちは冷たく映え、酷薄さを漂わせて見える。
(……陰鬱な生き物だ。同じなはずがない)
春のように
春明はしばし鏡の内と睨みあったあと、おもむろに立ちがった。気にかかる内容とはいえ、いつまでも得体の掴めぬ夢を引きずり、ゆっくりともしていられない。
今日は大樹帝より直々に
ここ数年、じわじわと都を蝕み続けていた疫病が、この夏を迎え、猛威を振るいだしたのだ。
それを憂いた大樹帝より、疫病鎮静のための祭儀を執り行うよう、勅命がくだったのだ。
近臣の貴族、
(それはいい。それはいいのだが……――)
春明はまだ朝日を迎えたばかりの明るく青い空を見上げた。
(このところ、星が読めぬ……)
星々の動きから、吉凶を見定め、未来を紐解く――その
(……なぜ、なのか……)
射干玉に瞬く、一対の螺鈿の星空が、夢の名残とばかりにかすか脳裏をくすぐった。それを軽い頭のひとゆすりで振り払う。
夢はもう終わりだ。ひとまず、始まったばかりの今日を乗り切らねばならない。
とはいえ、物を食べる気持ちにはなれず、春明は式たちに朝餉の支度を下げさせると、代わりに己が身支度を整えさせ、いつもより早く、何かから逃げるように内裏へと赴いた。
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