内裏の狭間(1)
名残の梅が香る闇を、小さな灯火がするすると動きゆく。内裏の
「このあたりでよいのですか?」
すっと背の高い女房が、そう尋ねかけながら手にした燭台をかかげた。
「
溜息を夜風に溶かしこみながら、翡翠を拠りかけた黒髪は、己が後ろで涙に沈む影を振り返った。
桐壺皇后の元、特にその側近く仕える命婦が、ひっそりと泣き腫らした目で懺悔とともに助けを求めてきたのが、ついさきほど。眠る女房をつつき起こし、大変なことを仕出かしてしまったと告げたのだ。彼女と親しくしていた中将から、皇后に渡すだけでもしてほしいと半ば押し付けられた懸想文。それを、よりにもよって局の外で落としてしまったのだという。
皇后が大樹帝の元にお渡りなさる時、付き従って承香殿の渡殿を行き過ぎた。その折に、強い風に煽られた弾みで飛ばされたのではないのかということだ。絶対に失くしてはならないと、肌身を離さず潜ませていたことが仇となったらしい。
「他の方の目に触れる前に探し出さなければ、関白殿などに知れましたら大変です」
とはいえ、臥待ちの月も星々も、曇りがちな空の
そこへ、梅香に混じり、どこからか焚き
雲がゆるやかに流れゆき、その片端から、顔を覗かせた月明かりが差しこぼれる。それがなぜか、いやに明るすぎないかと、女房が目を眇め空を仰いだ瞬間――。
ばっと吹き荒れた風が、桜の花弁とともに女房の黒髪を煽った。
闇が払われ、あたりが一瞬にして明るく塗り変わる。いずこからとも知れぬ管弦の音が華やかに響き、いくつもの花の甘い香が混じりあって、心地よく空気を満たしていた。
女房があたりを見渡せば、そこは先までいた承香殿の渡殿であることに間違いはない。だが、共にいた命婦の姿はどこにもなかった。周囲には桜が今を盛りと誇らかに花開き、撫子と白菊が睦まじげに咲き並ぶ向こうに、赤々と南天が実を結んでいる。鮮やかな鴇色に輝く空には、しかし太陽の姿がどこにもなく、いまがいつ何時なのかすら判然としなかった。
ふいに袿の袖を引かれ、女房が視線をやれば、可愛らしい
座るように腕を引かれ、腰を下ろしたとたん、隣から杯が回ってくる。見れば、それを女房へと差し出したのは、いつかいなくなった桐壺皇后の元の少納言の君だった。
『どうぞ、少将の君。あなたもお飲みなさいな』
たおやかな微笑みの勧めるままに杯を手に取る。白濁もなく、透明で水のようであるのに、酔う香りがした。
『甘い匂いでしょう? よい味ですよ。一息に。そしてあなたの琵琶を聞かせてくださいな』
「ええ・・・・・・本当に、甘い香り・・・・・・」
柔らかな声に誘われるままに杯に鼻を寄せて、少将の君はふわりと、紅を差した唇を引き上げた。
「でも・・・・・・少し――いえ、かなり、血生臭い香りもしませんこと?」
零れた低い声音にざわりと空間全体が波打つように不快に揺れた。と同時に。少将の君――玄月は、手にした杯を居並ぶ女房たちの間を縫って、彼を誘いこんだ女童目がけて投げつけた。
まだ幼く前髪の残る額に強かに杯が当たった瞬間。およそ人の身から響かぬ、陶器がひび割れるに似た音が轟いた。目を見開く女童の愛らしい姿が、皮が爛れ落ちるようにどろりと赤黒い塊に溶け変わる。
同時に
『騙サレタ・・・・・・陰陽師ヲ招キイレタ。騙サレタ。ソノ目欲シサニ騙サレタ・・・・・・』
女童の衣を纏う肉塊が、罅割れた呻き声で怨嗟を唱える。ずるりと玄月に向けて歩み寄るは、落ち窪んだ虚の双眸。それが、まっすぐに彼の漆黒の瞳を見定めた。
『セメテ、ソノ目ヲ置イテ行ケ・・・・・・!』
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