琵琶の音の君(1)



 居待いまちの月明かりが、女御更衣にょうごこういの住まう殿舎でんしゃに流れかかる。趣深い朧月夜だが、管弦の遊びの類で賑わう気配はおろか、女房たちの囁きごとのひとつもない。かの一件以来、華やぎは鳴りを潜め、誰もが息を殺して、朝のおとないを待っているのだろう。春明にとっては心地よい静けさだ。


 しかし、月の指先から零れる光すら届かぬ内裏だいりのそこかしこには、より濃く黒い闇が渦巻いている。静謐さもあいまって、不気味な空気が醸し出されていた。


 そんな静けさを切って、ふいに琵琶の音が春明の耳朶じだに絡む。高く、低く、のびやかに――誘うように。


 その音に導かれるままに春明が足を向けてみれば、内裏の北東のつぼねへと辿りついた。かつて登華殿女御とうかでんのにょうごと呼ばれ、大樹帝たいじゅていちょうも厚く、皇后とまでなりながら、権勢衰えて局を移さざるを得なかった定周さだちかの妹。桐壺皇后と呼ばれる彼女が、あらたに賜った淑景舎しげいしゃだ。


 その東の細殿ほそどのの端。そこの蔀戸しとみどが、一面だけ上げられ、春風に揺れる御簾みすの下から、月夜にもそれと分かる桜襲さくらがさねの裾端がのぞいていた。

 人気ひとけのないのをいいことに、ずいぶんと無防備に端近にいるようだ。


 春明は小さく嘆息すると、すっと音もなくその御簾の側まで歩み寄った。人の気配に音を止め、するりと内に引き入ろうとしたうちきの裾端を膝で留め、押さえ込む。


「――琵琶の音に惹かれて、とでも呼びかければいいのか? 誘いかけておきながら逃げるとは、どういった戯れだ?」


 春明は遠慮なく御簾を跳ね上げた。同時に押し入った中にいた相手の撥を持った手首を掴み取る。それは、女の手にしてはしなやかながら骨が太く、硬く、しっかりとした掴み心地があった。


「説明をしてもらおうか――玄月げんげつ

 鋭く睨み据える双眸の元。差し掛かる淡い月光に照らされて、ふわりと切れ長の射干玉の瞳が微笑んだ。澄んだ鋭さをはらみながらも、玲瓏で華やかな容貌が、恥じらいに隠される素振りもなく堂々と見上げてくる。


「いやいや、名高き稀代の陰陽師、安倍春明ともあろうお人が・・・・・・女を口説くのど下手くそか」

 赤い唇からこぼれた柔らかながらも低い声は、楽しげに喉を鳴らした。


「強引さを売りにするにしてもさ、最初は優しくいってくれないと。君ほど顔が良くたって、靡く気が起きないよ? せっかくの朧月にでもかこつけてさ、もう少しましな誘い文句もあるだろう? まさかこれだけ都で過ごしていて、逢坂おうさかの関越えのひとつもないとは言わせないで・・・・・・え? ない? ないの? 本気? よもや君、とんでもない希少しゅ、」

「黙れ」

「痛い痛い痛い」


 眉ひとつぴくりとも動かさないまま、しかし確実に苛立ちののった無表情が玄月の手首を捻り上げた。抱いた琵琶を放り出した掌が、ばんばんとひさしを叩いて降参を示す。


 品も淑やかさもあったものではない。だが、見目ばかりはあてに清らかなのがこの男の腹立たしいところだ。元々、背格好は春明とよく似ているので、女房としては少々居丈が高く、肩や背などが広く大きく映る。だがそれも、衣を纏えば誤魔化せる範囲だ。男にしては長い黒髪のおかげもあって、装束を変え、軽く紅を引いた程度の雑な変装でも、それなりに女房然とした様に化けられていた。


「お前を訪うのに、手練手管も必要ないだろう。多少それらしく応じてやっただけでもありがたく思え」

「雰囲気~。せっかくの貴重な経験なんだから、盛り上げてほしい」

「貴様は遊びでその酔狂ななりをしてるのか?」

 無遠慮に撥の角で人を刺す手を、呆れ顔ではたき落として春明はいう。


「だいたい、先に事に当たっているというから、どんな様子かと式を飛ばしてみれば、中宮の元に女房として出仕していると返ってきた時は、あのたわけ者はどんな騒ぎを始めやがったのかと気が遠くなったぞ」

「どーも、美貌の琵琶の名手と名が上がりはじめてきました少将の君でーす。出仕七日にして懸想文が二通も来ました、わろし」

「わろし、じゃない」


 気だるげなのか得意げなのか分からない調子での恋文報告に、春明は冷淡に言い放った。


「いやだってさ、今回の怪異について、公では内密になってるけど、ばんばん噂出回ってるじゃん。なのに、それはそれってことで内裏女房を口説きかかってくるの、すごくない? 都人ってみんな恋しかしてない烏滸おこな者なの? わろしとしか言い様なくない? うっかり楽しくなって返事書いちゃったよ」


「その点に関しては、馬鹿ばかりなのは間違いないが、返事をするお前も相当な馬鹿だな」

「琵琶もだけど、筆跡にも自信ある」

「お前、いつか人心を弄んだ咎で呪われるぞ?」


 顔を見る機会が少ない分、たいてい漏れ聞こえる楽の音や送られる文の筆跡で、男たちは妄想逞しく女性の姿を思い描くのだ。それが、こんな男に引っかかっていたとあっては、自業自得の向きがあるとはいえ哀れでならない。


「それで、詳しくはしきではなく、直接会ってといっていた状況はどうなんだ? 今更だが・・・・・・人払いは出来てるんだろうな?」

「そこはもちろん。ぬかりなく。ここには定周殿の手配ではいっているからね。妹君の皇后様と側近の女房いく人かは俺のことはご承知だ。いろいろと御配慮いただいてるよ。――春明との秘密の逢瀬、邪魔されたくないもんね」

「ぶん殴ってから話を続けていいか?」

「もうぶん殴ってるぅ! 稀代の陰陽師のくせに手っ取り早く暴力に走らないでよ~」


 絶妙に腹の立つ愛嬌を振りまいた目配せに、春明の拳は堪える前に振り下ろされていたようだった。しかし、頭をさする玄月に懲りた様はない。

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