第36話 優しい嘘



「トキマカセ様どうぞお通り下さいませ。」


と婆が言うと扉の影から静かに1人の男が入ってきた。


トキマカセに会える。


そう思うだけで、狭い部屋の薄暗い閉鎖的な空間も、暖色系の丸みのある光の中の様に思えた。


そう思っていたのに……。


その男を目にして壱与は思わず目を大きく見開いた。


何故なら婆に呼ばれて部屋に入って来たのは、手に青白き光を灯した初老の男だったからだ。


「……そんなまさか……!?あなたはトキマカセノミコトなの?」


男はしゃがれた声で答えた。


「壱与様。トキマカセノミコトでございます。」



「トキマカ……セ?本当なの?本当にあなたなの?何故なの……う…グ……」


壱与の頬を感情の雫がとめどなく流れ出してくる。早く帰って来てほしいと願い続けて、この日を今か今かと待ち続けていたのに、今目の前にいる初老の男がトキマカセノミコトだと頭で理解するのはとても難しいことだった。それにいったい何を聞いて、何を伝えて良いか……しばらく頭の中が整理出来なかった。



婆は静かに席を外し、トキマカセノミコトの左手に灯る青白き光は、眠ったように鎮まりかえっていた。


男は声もあげずに泣く壱与に静かに近寄り、自分の元に抱き寄せた。そして2人は少しの間ただただ、お互いの体の感触と体温を確かめ合いながら小さな静寂を過ごした。


。。。。


「老いた私は醜いでしょうか?」


と壱与に聞いてみる。


「そうではないの……。ただ……申し訳な気持ちでいっぱいで……私のせいね。あなたがそんな姿になったのわ。それなのに……私ったら世界の不幸を全て背負った様な気持ちになって……。」



「壱与様……。」



「婆があなたをこの部屋へ通した時、嫌な予感がしたわ。けれどもそれは自分の思い通りにはならないという自己中心的な私の思いでしかなかったのね。私は私の為に動いてくれているあなたに降りかかる負の要素なんて少しも考えていなかったわ……。」



「それは違う。あなたは私が『時の宙』の話をした時に、私に対する負担はないのか?とちゃんと気にかけてくれました。けれど私は嘘をついた。」



「本当はこうなる事をわかっていたのね。

嘘つきね……。知っていれば私は……ひどいわ。」



手で涙を拭いながら嗚咽を堪えて必死で訴えかけた。



「ひどい?私が素直に伝えたらきっとあなたは納得しなかったでしょう。それでも……あなたに嫌がられても、私はあなたに生きて欲しかった。」



「あなたは優しい人だものね。でもね……は時として、人を傷つけるのよ。」



「優しい嘘……。」



「そうよ。相手を信頼していればしている程に裏切られた感じは否めない……。」



壱与はそれっきり下を向いて黙りこんでしまった。



「優しい嘘……本当にそうかもしれませんね。」



口にする言葉がすべてでまかせの様に思えてそれ以上言葉などでてこなかった。

壱与の温もりを感じながら、その純粋無垢で汚れを知らぬ長く艶やかな黒髪を撫でると、自分の汚れを洗い流して心が癒されるに思えた。


「世界はいつも表と裏でできているのですね。」


とトキマカセノミコトの胸の中で壱与が呟いた。


「どういう事ですか?」



「つまりこの瞬間を愛おしく思う者もあれば、この瞬間を恨めしく思う者もある……。

光あるところに影はある。全てに光を与える事はとても難しい矛盾なのかもしれないわね。」


一瞬妻と息子の顔が目に浮かんだ。


壱与と一つになれないという気持ちを抱える一方で、二人に対する罪悪感は拭えない。

自分は不幸と思いながらも、どちらも選ばないというのは実は身勝手極まりない行為なのだろう。壱与のその言葉を重く強く感じながら、自分を奮い立たせて覚悟を決めた。

きっともう終わりの時は近づいているのだから。



「さぁ壱与様。時はそう長くは待ってはくれません。新しき時の始まりの為に私はあなたを救うべく魂を手に、秘術を用意してまいりました。」



壱与を抱く手を緩めて、

少しずつ距離をとりながらそう言った。


「はい。何度も聞きましたが、あなたに危険は生じないのですか?」


「はい。何度も伝えましたが……私はあなたをずっと見守り続けます。だから安心して身を任せていただけますか。」



「わかりました。私も覚悟を決めます。」



すっかり泣き腫らした真っ赤な目を服の袖で拭いながら、気持ちを切り替える為に首にかかる勾玉を手に掛けて鼓動の静寂を意識する。その淡い緑と青を重ねた様な色の翡翠でできた勾玉は、陽始ひのもとの一族に伝わる三種の神器の一つだ。


三種の神器は割れてしまった八咫の鏡、この翡翠の勾玉、それから最後の一つの草薙の剣だ。けれどもこの草薙の剣は今は行方がわからないし、八咫の鏡は割れてしまった。唯一まともに残っているのはこの翡翠の勾玉だけだった。


翡翠の勾玉が壱与の念で光を灯している。

緑青の勾玉が朱く、白く、そして黄金に輝きを変えていく。

それと共に壱与の心拍数も穏やかなリズムを取り戻していく。


「それで?私はどうしたら良いの?」


と、瞼をゆっくりと開いた壱与はすっかり女王の表情でトキマカセにそう言った。



「はい。この左手に宿ります青白き光は、

遥か遠い異世界で出会った生を受けるはずだったある姫君の魂でございます。」


トキマカセもまた壱与同様に、時を司る者としての引き締まった顔つきで壱与に向き直り答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る