第31話 風のような少女(二)
「ごめんなさいね、私はあの件が——ではなくて。数馬は、私のところに来ることになってからすぐにああなってしまったから、私は学校のことをほとんど何も知らなくて。最初の頃は色々と楽しいお話を聞かせてもらっていたのだけれど、突然ああいう状態になってしまったことを考えると、きっと気を遣っていたのだろうし、元々は無理をしているときほど笑う子だったみたいだから——あっ、失礼。あなたは……あれ、またお名前を訊いていなかったかも。教えてもらってもいい?」
「戸倉でございます。戸倉伊奈と申します」
「じゃあ、伊奈ちゃん——伊奈ちゃんは、元々数馬と仲良くしてくれていたの?」
「いえ、私は御宅の数馬さんにはお会いしたことが一度もございませんのです。何なら、お顔を見たことすらもないまでございます。不肖私めは一介の転校生でございまして、つい先々週くらいにこちらに越して来たばかりなのであります」
「あら、それなのにこれを引き受けてくれたの?」
「はい、左様でございます。なんでか分からないけど、なんかみんなあんまり乗り気ではなかったん……でございます。なぜか一部の方々が私に任せるべきだと強く主張したので、私がこちらに来ることになったというわけです」
叔母は少々違和感を覚えた。「あんまり乗り気ではなかった」? あの華々しいエピソードが本当でなかったとはいえ、そして彼が比較的大人しい方であるとはいえ、数馬は誰かに忌み嫌われるほど性格に難のある子供では断じてない。そんな彼の家にプリント類を届けるだけのことを、多くの生徒が避けようとして、彼女に押し付けたということ……? 単純に、面倒だからという話なのかもしれない。村は広いし、そんな広い村の中には一つしか小学校がないのだから。家が近い者に任せるということなら、確かに合理的だ。きっとそうだ。そうであってほしいが、叔母には、そんな些細なやり取りの中に、隠された「闇」の存在を感じずにはいられなかった。
「なるほど、心優しい子だ……。ところで、家はここから近いの?」
「うーん、近いとも遠いとも言い難いといったところでしょうか。確かに一キロちょっと遠回りにはなりますが、私にとっては大したことではありませんので大丈夫なのです」
「そ、そっか……」
まあ、つまりは、そういうことなのだろう。もしかしたら、担任が「募集」するような形を取ったのも、最初に家が一番近い生徒に頼んで断られたという経緯があったのかもしれない。考えすぎであってほしいが。
まあ、何はともあれ、少なくともこの子は、数馬を憎んでいるような人ではない。
「えっと……数馬には会ったことがないんだよね?」
「はい、ただの一度もございません」
「それじゃあ……今これから会ってみる? 顔を見せてくれるかどうかは分からないけれど」
「良いんですか⁉ ありがたき幸せです!」
「あはは……」
二人は、少しばかり急な階段を上って、二階の、数馬が暮らしている部屋の前までやってきた。
二、三度ばかり深呼吸をしてから、叔母は部屋の中に向かって語りかける。
「数馬くん、起きてる? 起きてたらちょっと、会ってほしい人がいるのだけれど」
「……何?」
「同級生の子で、色々届けに来てくれたから、折角ならどうかなーと思って……」
「あんまり……顔を合わせたくない。というか、ただでさえ弱みを見せたくない知り合いにこんな醜態を晒しながら、まともな気持ちで話が出来るとは到底思えない」
数馬は、そう食い気味に言ってそれを拒否した。
彼は言った。「ただでさえ弱みを見せたくない」——と。そう、日々の会話で度々漏れ出る彼の「本音らしきもの」にきちんと耳を傾ければ、例の推論が荒唐無稽な被害妄想などではなく、むしろ真実にほど近いものであるということは、火を見るより明らかであった。もう、それを誤魔化してはおけない。こうやって、現状維持という名の「シカト」を続けていくわけにはいかない。
これは、単に子供の脆い精神が云々という話ではない。大人の介入が必要だ。もちろん、精神科医を呼ぶくらいのことはしたが、それも結局は形式的なものというか、彼が本当のことを話さなかった以上、そして彼女ら叔母夫婦が事の本質を単純化して捉えていた以上、ほとんど意味をなさないものだった。だから、彼自身の口から、彼が本当に経験したこと、そして思っていることを話してもらわなければならない。彼に必要なのは「理解者」なのだ。例えその最初の一人に、自分が鳴れなかったとしても——。
「そう……で、でもね数馬くん、今日来てくれたのは、あなたと多分一度も会ったことがない、転校生の子で——」
「なんでそんな子に? 押し付けたってこと? 転校生だから? 何も知らなくて都合がいいから? それともまさか、『ソト』の人間同士お似合いだとでも思ったってこと?」
「それは……えっと……その……」
叔母は言葉に詰まってしまった——が、すぐさま、手前方向から、威勢の良い声が飛んできた。
「何をそんなにひねくれ散らかしたことばっかり言って! 大人か! あなたは大人ですか!」
「『大人』……? いいや違うよ、『大人』になれるだけの強さがないからこんなことになってるんだろ……」
「……やけに悲壮感を漂わせていらっしゃいますけれど、そんなポエミーで断片的で抽象的なことばっかり言われても全く以って意味が分かりません! 中途半端に気になってきてしまったので、とにかく扉を開けてください!」
「いや、そんなことを言われても……」
「開けてください! 万万が一それが無理なら、名前だけでも覚えてください!」
「んな漫才みたいな……」
「あっ、今ツッコミを入れましたね⁉ ツッコミが出来る気力があるならきっと大丈夫です!」
「あ、あの……伊奈ちゃん……? その……あんまり……」
「はっ! ええっと……ム、ムリハシナクテダイジョウブデスカラネー」
「……」
もはや滑稽にすら思える沈黙が十数秒にわたって続いたのち、開かずの扉——とはいっても、数馬は常にこの部屋に引きこもっていたというわけでもなかったのだが——がゆっくりと開いた。
「本当に、全く以って意味が分からないけれど……ここまで言われてしまったら、出て行かないというのも流石に、って感じだし……」
そう言いながら、数馬は徐にその扉から顔を出した。その顔はひどくやつれていたが、この瞬間、昼間でも常に暗かったその部屋には、確かに光が差し込んでいた。
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