第30話 風のような少女(一)
そしてその日以降、彼は学校に行かなくなった。いや、行けなくなったというのが正確だろうか。まあとにかく、彼はいわゆる「不登校」の状態になってしまった。しかし、状況が状況であったので、これも仕方のないことだろうと判断されたのか、叔母夫婦は、彼がこのような状態になっても、あくまでも彼に優しく接し続けた。そして担任の先生も「学校に来なよ」という趣旨のことをしつこく言ってくることはなかった。なにせ、どうしても起き上がって生活をすることが出来ないのだ。医者にも正式な診断を受けて、「静養の上で、経過観察を」ということになっていた。
彼が経験した「引きこもり生活」というのは、創作物等で一般的にイメージされるような、自堕落の極みのようなものではなく、むしろ常に何かに縛られているような感覚に襲われるという、自由からは程遠いものだった。
本を読んだ。九十一ページ目で読むのをやめてしまった。
ゲームをした。チュートリアルだけでもう、どうでもよくなってしまった。
ポテトチップスとコーラなんかは、喉を通るはずもない。
そういうものだ。どうやっても、気を紛らわすことなんてできっこない。
自分で自分を投獄しているかのような、そういう感覚。
そんな無限の闇の中で、上も下も分からないままに、ただ喘ぎながら浮かんでいた。
何度も言うようだが、これは十歳の少年が経験することとしては、あまりに残酷で、そして深刻だ。
こんな生活が、もう何日続いただろうか。少なくとも、十数日から数十日くらいは経っていただろうと思われる。もはや何をする気力も起きず、ただ、布団の上にあおむけになって、虚ろな目で暗い天井を見つめるだけという状況で、彼の精神状態はこれ以上ないほど酷いことになっていた。いつからか処方されるようになった薬も、結局はまやかしの域を出ない。騙されている、いや、自分を騙して気持ちよくなっているだけ。こんなものに縋っていたって、どうしようもない。子供ながらに、そんなニヒルなことを考えて、数馬は薬を飲むことすらもやめていた。もちろん、今では身勝手で愚かな行いであったと反省しているが。
だからとにかく、この、寝たきり老人と大差のない生活を送ることを余儀なくされている可哀想な少年には、誰かが救いの手を差し伸べてやらねばならなかった。もちろん、彼のことを一番よく気にかけていたのは、同じ屋根の下に住んでいる叔母夫婦であり、それ以前から、数馬がこの苦しみを乗り越えられるよう、いろいろな手を使って支援しようとしてはいたのだが、精神科医の件からもわかる通り、それらのほとんどは彼にとって全く以って意味をなさなかった。いや、それどころか、生真面目な性格ゆえに、彼はその失敗を「自分がどうしようもないせいで善意をきちんと受け取れなかった」と解釈してしまい、更なる自己嫌悪のスパイラルへと陥ってしまっていた。彼女らの方も、こういった「救い方」が彼に合っていないことは徐々に理解しつつあったのだが、かといって直接「学校に行ったらどう?」と追い詰めるようなことを言うこともできないし、プロでない自分たちがかけた言葉はむしろ逆効果になり得るかもしれないと心配だしで、つまるところ、「詰み」の状態にあったのである。夫婦は、これから何十年と、数馬を養っていく覚悟を決めつつあった。
しかし、そんな、とことん絶望的で、自分の身体すらも見えないほど暗くて、どろどろとしていて、得体の知れない恐怖感が自分を縛り付けてくる感覚に襲われるような、最悪の暗闇の中に、突如として、一筋の、ただひたすらに眩い光が差し込んできて、まるで流星のようにそれを照らしたのである。
それがあの女、戸倉伊奈だったのだ。
ある日——いつも通り、数馬は自室に放心状態で仰向けになり、叔父が仕事に行っているので、叔母だけが家で家事を済ます、そんな日——。叔母夫婦宅のインターホンが鳴った。
宅配便か何かだろうか、いやしかし、今日届くようなものはあっただろうかと思い、ひとまず「はーい」とだけ返事して、叔母は仕事を一旦取りやめ、玄関に向かった。しかし、ドアを開けると、そこにいたのは大人の配達員ではなく、子供だった。
「わざわざありがとうね、迷惑かけちゃってごめんね」
「そんな、迷惑だなんてとんでもないですよ、そんなこと思っちゃったら樋里く……数馬くんって言った方が良いですかね? あれ、でも
少しばかり変な口調ではあったが、この言葉に叔母はハッとさせられた。そう、いくら外的で社交儀礼的なコミュニケーションにおいてのことであろうと、言葉には人が心の奥深くで考えていることが滲み出てきてしまうものなのだ。彼女らは非常に優しかったので、数馬を預かることが自分たちにとって迷惑になるなどとは一度たりとも考えたことがなかったが、少なくとも、無意識のうちに彼が「外の人たちに迷惑をかけてしまっている存在」であるということを認めてしまっていたのだ。これではいけない。そういった悪い思念は、彼の側にも少なからぬ悪影響をもたらすだろう。
「あと、私はここら辺をあまり歩いたことがありませんでしたので、新鮮で結構面白かったですよ」
「そ、そう? それは良かった……」
「あっ、でもこれだと二回目以降は来る気がないみたいな捉え方をされてしまってもおかしくないですね。一度お願いされた以上、樋里く……数馬くんが戻ってくるまでは、時々お届けに来るのではないかと思います」
この子は、思ったことはとりあえず全て口にしてしまうタイプなのだろうか……と少々不思議に思いつつも、その発言に叔母は安心した。彼女は本当に、ただ善意のみからこの仕事を引き受けてくれたようだ。
「ありがとうね、結構遠かったでしょう、疲れているだろうし、折角ならうちに上がってお菓子でも食べて行かない? もしかしたら、数馬も出てきてくれるかもしれないし」
「本当ですか⁉ 超幸甚に存じます!」
このチグハグな敬語は一体どこで身に付けてきたのだろうかと、依然として困惑しながら、叔母は戸倉を招き入れた。
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