第29話 忌々しい記憶

 樋里数馬は、檜原村出身、二十六歳の衆議院議員である。「地方格差」の解消を掲げ、西多摩地域からの絶大な支持を得て当選したことからも分かるように、彼の「地元愛」——もとい「多摩愛」は人一倍強い。

 しかし、彼は初めから多摩のことが好きなわけではなかった。むしろ、最初は——子供の頃は、「田舎だ」と忌み嫌っていた。それには、れっきとした理由がある。彼は檜原生まれでありながら、真に「檜原村の者」であると認められるまでにはかなり時間を要したのだ。

 それは何故か。

 両親である。

 樋里——いや、ここでは数馬としておこう。数馬の両親は、共に東京二十三区生まれ、二十三区育ちの人間だ。両者とも、裕福な家庭の生まれであったので、名門私立大を経て就職し——その職場で、出会ったのだという。そして、結婚を機に、二人で仕事を辞めて、檜原村へと移り住み、しばらくして数馬が生まれた、というわけだ。檜原村では、村役場の職員として働いていたが、それ以前の「辞めた」仕事について、数馬は何も聞かされていなかった。彼がしばらく後に聞いた話では、職場で大きな「やらかし」をしてしまったが故に、逃げるようにして、引っ越してしまったのだとか。それを聞いたとき、「そんなダサい理由だったとは……」と呆れ返ったことを、数馬はよく覚えている。

 つまるところ、数馬が生まれた時点でもまだ、彼の家族——樋里家は、村にとって「部外者」の域を出ていなかったのだ。もちろん、「村社会」だからといって排他的な人ばかりとは限らないし、むしろそのような場合の方が少ないという可能性すらあるだろう。実際、当時の檜原村も、温厚で心優しい人が大半を占めていた。

 しかし、そうでない人々というのも当然存在する。そういう人達は大抵、移住のことを金持ちの道楽だと考えている。

そして、「子供の社会」というのは、それほど生易しいものではない場合も多い。子供は残酷と言われるように、悪い噂が流れれば彼らの行動はそれに大きく左右される。誰か大人がそういったものを「吹き込む」ようなことをすれば、低学年程度の年齢であれば簡単にそれが「真実」として伝播してしまうのである。

 数馬は、そんな「小さな社会構造」の被害者の一人だった。壮絶ないじめを受けたわけではなかったのが幸いだったが、「違う人種」という扱いを受けてしまったのだ。「彼ら」は、一定の頻度で話しかけてはくれるが、その中で明らかに数馬だけが異質だった。一グループに部外者として侵入することへの恐怖のせいで、自分から話しかけるようなことは絶対にできなかった。

 そして、彼は多摩のことが嫌いになった。もちろん、両親が二十三区出身であることも憎んでいたが、移り住んできたというそれだけの事実であれほどまでの仕打ちを受けるのは、まだ幼かった彼にとってはさらに耐え難いことだった——というよりむしろ、理解し難いことだった。

 それでも、彼は耐えようとしていた。教室が灰色になっても、ただでさえ孤独な帰り道がさらに孤独になっても、なんとか歯を食いしばって、何でもないように振る舞った。嘘に塗(まみ)れた「きょうのおもいで」を、笑顔で語り続けた。

 しかし、それに追い打ちをかけるかのように、彼にとって最大の悲劇が起きた。




 両親が、亡くなったのだ。




 数馬の両親はその日、久々に二人だけで旅行に行くことになっていた。飛行機に乗って、沖縄へ。

 しかし、羽田空港に向かう道中、運悪く、事故に巻き込まれてしまったのだという。

 その報せを聞いた時、数馬は頭が真っ白になった。全く以って、何を言っているのか分からない。そんなことが起きてたまるものか。有り得ない。そう思った。

 今まで当たり前に存在していたものが、突然なくなってしまい、そしてもう、二度と帰って来ることはない。頭では分かっていても、そんな事実を認めることは、どうしても出来なかった。二人はまだこの世界にいる、そうに違いないと、自分に言い聞かせる他に、精神を正常に保っておく方法はなかった。

 葬式は行われなかった。のだそうだ。事故死だと言っているのに、遺体が見つからないというのもなかなかおかしな話だが、犯人が、事故を起こして気が動転して隠蔽を図り成功したか、あるいは「誰でも良かった」系の殺人犯だったのだろうということで、勝手に納得していた。

彼はその後すぐに、これまた檜原村にあった叔母夫婦の家に引き取られたが、どれだけの時間が経っても、彼女のことを「お母さん」と呼ぶ癖は抜けなかった。彼がそのように間違えるたびに、叔母の表情の次第に曇っていった。そんな顔を見てしまっては、十歳の彼とて責任を感じずにはいられない。出来るだけ元気な姿を、出来るだけ綺麗なところだけを、「新しい両親」に見せなくてはとそう意気込んで、彼は生活を続けた。


 しかし、その重荷は、十歳の少年が背負うにはあまりにも重すぎた。

 その「事件」があってからの彼は、以前とは決定的に異なっていた。本人も——そして周囲も。ただでさえほとんど孤立状態であったような数馬が、悲しみに暮れている。そんな彼を笑う者は——いや、笑える者は、誰一人としていなかった。しかし、そんな状況が、彼とその他大勢との間に、分厚い鉛の壁を建ててしまった。彼は以前にも増して孤独で、虚ろで、悲哀に満ちた、ただ冷え切った鉄の塊と化していた。そしてこの事実は、ますます早いペースで彼の精神をどんどん蝕んでいった。

 数馬はある日、学校で嘔吐した。慢性的な、この世のあらゆる物事に関する漠然とした不安感、そして得体の知れない、奇妙でかつ強く激しい不快感が、吐き気という形を成して彼に襲い掛かって来たのだ。

 その日、彼は学校を早退した。

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