第8話 「ようこそ」にはまだ早い

 樋里と八千代が吉祥寺前線基地に到着したのは、午後五時半頃であった。十一月ということもあって、既に日は落ちていた。

 建物の前に立つ。一瞬、足が止まりかけたが、何とか動かして、入口まで歩いた。またもや身分証等の提示を求められたので、提示して——と、ここで重大なことに気が付く。

 八千代の身分証明が出来るものがないのだ。

「お待ちください、樋里先生。そちらの女の子は」警備員の一人に問われる。

「えーっと……そこら辺を歩いていたら見つけた迷子の子で……とりあえずこちらで保護できないものかと思って連れて来たんですけど……やっぱり、流石にまずいですかね?」

 二人の警備員が相談を始める。これは特例として認めた方が良いんじゃないか、いややはり基地の安全が第一ではないか、しかし民間人がここをほっつき歩いていたら危ないだろう、といった会話が聞こえる。

 しばらく待った後、警備員たちが樋里を向きなおして言う。

「樋里先生が良しと判断するのであれば、構いません。ただし、危険因子だった場合の責任は、あなた自身で取ってください。それではどうぞ、お入りください」

 樋里は胸を撫で下ろした。唾を飲み込んで、中に入る。すると、心配そうな顔をした人々が目に映った。

「樋里くん! あんな雰囲気だったから仕方ないとは思うけど……心配したよ! もう君を責めようなんて人はいないから、安心してくれていい」

 そうやって、真っ先に話しかけてきたのは押立だった。よく見てみると、基地の沈んだ雰囲気も、なんとなく解消されているような気がする。押立さんがその圧倒的な人心掌握術で以ってみんなを「説得」、あるいは鼓舞してくれたのだろうか。班の責任者として思うところがあったのか、先ほどは流石に落ち込んでいるように見えたが、やはりこの人はブレないな、と思った。

「ところで——」

 押立は八千代を指差す。

「その子は?」

「えーっと……なんとも説明しづらいんですが……」

「えーカワイイー! 中学生? 人形みたいじゃーん! なんかもう完成されてて逆に?スゴいっていうかなんていうか、なんか、なんかだ。すごい」

 長沼が割り込んできた。八千代は怯えて三歩ほど引き下がる。自分との初対面でも警戒を解いてくれるまでに——今も解いてくれているかは若干怪しいが——これはまずい。

「ちょっ、ちょっと待ってください! 事情は説明しますから! 怖がっちゃってますよ!」

 慌てて制止すると、流石に「あーゴメンゴメン、興奮しすぎちった」と引き下がってくれた。

 一度深呼吸をして、樋里は事情を説明した。

「さっき飛び出していったときに、中央線の高架下に行ったんですけど、そこにある公園で眠っているのを見かけて、色々訊いてみたところ、どうやら身寄りがないみたいで、こちらで引き取る——かどうかはまだ判断しかねますが、お腹を空かせているみたいだったので、とりあえずこちらで食事をとってもらおうということで……」

 金森がおもむろに立ち上がる。

「なるほど。事情が事情なので、私は受け入れて構わないと思いますが——皆さんはどうでしょう?」

 金森の問いに対し、「私も、問題ないと思います」「まあ、良いんじゃないですか」「さんせーい」と、概ね肯定的な意見が聞こえてくる。しかし、このタイミングで、ある男が突然立ち上がった。

「あのぅ……僕なんかが意見するのも烏滸おこがましいとは思うのですが……」

 箱根崎だ。なんとなく、嫌な予感がする。

「僕は、あまり賛成とは言いたくないです。だって……こんな状況で、素性の知れない人を招き入れるなんて、正直に言って考えられないですよ。腰を抜かした僕が言うのもおかしいですけど……戦場を舐めてませんか? 敵がいつスパイを送り込んできてもおかしくない。その子がスパイだったら? 責任は取れるんですか? 若い女の子だから、よっぽどのことがない限り疑われないだろう、みたいに思われてるんじゃないですか? だから——いくら僕を助けてくれた樋里さんとはいえ、賛同できないんです。まあ、疑わしきは罰せずでもいいですよ……でも、その真実が判明する時にはもうここも——壊滅状態かもしれないですけどね! ハハ! ……ハハハ……」

 言い終わると同時に、箱根崎は下を向いた。そして、ゆっくりと、罪悪感に満ち溢れたかのような表情で、また座った。

 隣の八千代の方を見やると——今すぐにでも逃げ出したいと言わんばかりの強張こわばった表情をしている。俯き加減の姿勢で、小刻みに震えていた。

 このままではいけない。どうにかしないといけない。確かに、八千代がスパイでないことを示す確固たる証拠は全くないのだ。もちろん、そんなはずがないと信じてはいる。しかし、基地の市民兵たち——もとい、箱根崎南平にそれを信じてもらう術が思いつかない。どうすればいいだろうか。「責任を取る」と言えばいいかというと、そうでもないだろう。ふと、長沼の言葉を思い出した。

『うお、すげー政治家っぽい発言……』

『あっゴメン、声出てた……うーんまあなんつーか、そんな責任とか遺憾の意とかそういうのは全然言わなくていいから、今回は何もなくてラッキー、って感じで、次からは作戦も兵力もガチガチに固めていこー、くらいでいいと思うんだよね、そう、個人的には?』

 そう、求められているのはこういう「責任」と言いながら責任逃れをするような人間ではなく、何があっても自分たちを導いてくれる「頼りになる」指導者なのだろう。

 第一、責任と言ったって、箱根崎に「責任……? さっき言いましたよ、『責任を取る』と言う頃には、あなたも私も浮世の住人じゃないってね」と返されて、それで終わりだろう。

 さあ、どうする。八千代の名誉を傷付けずに、うまい事彼女のことを信じてもらう方法。考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ——。

 うまく言葉が出てこないまま、汗を流しながら立ちすくんでいると——。


 ——八千代が、前へ出た。


 先ほどまでひどく怯えていた彼女が、目の前に立っている。その両足は依然として震えているが、それでもしっかりと、地を踏みしめて、立っていた。

 彼女は、大きく息を吸って、こう言った。

「私は……確かに二十三区からやって来ました」

 聴衆にどよめきが走る。「えっ……まさか本当に……?」と誰かが呟いた。

「でも、スパイではありません。逃げて来たのです」

 八千代は、強く、はっきりと主張する。

「私の頭の中には——東京二十三区にまつわるあらゆることが、知識として入っています」

 そして八千代は、改めて息を吸って、宣言した。

「私は、皆さんに協力します。『東京軍』と戦うにあたって必要な知識を、皆さんに共有します。戦術面での全面協力を約束します」


「どうか……私を信じていただけないでしょうか……ッ!」


 吉祥寺前線基地に、もう何度目かも分からない沈黙が流れる。誰もが反応に困っているのだ。だが——八千代はあの時、確かに自分の足で前に一歩踏み出した。自分があれやこれやと堂々巡りの施策を巡らせている間に、彼女自身が、有り体に言えば「勝負に出た」のだ。

 正直、この方法で皆に信じてもらえるかは分からないし、あらゆることが知識として云々というのも、誇張だと思っている。しかし、のも確かだ。この子は、恐るべき慧眼の持ち主かもしれない。

 沈黙を破るように、金森が喋りだした。

「うーんと……言いたいことはよく伝わったけれど……とりあえず、名前を教えてもらっても構いませんかな」

「はい……!」

 彼女は、繊細ながらもはっきりとした声で答えた。


「私の名前は——八千代です。何卒、よろしくお願いします」

 

 八千代の声だけが、夜のデパートに、優しく、それでいて重々しく響き渡り——そして、ゆっくりと吸い込まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る