第7話 物憂げな青年と物言わぬ少女

 少女が目を覚ましたのは、それから一時間ほど経ってからだった。ベンチの上で、「うーん……」とうめき声をあげて、そのまぶたを開く。

 樋里は、改めて少女を見つめた。つややかな黒い長髪、手足の細い華奢な体つき、そして、星が宿っているかのような輝きを放つ双眸そうぼう。樋里は小児性愛者ペドフィリアなどではなかったが、それでも深く魅入られてしまった。それほどに、まるで一つの芸術品——それも、天才芸術家がその一生をかけて完成させた作品——として完成されているかのように、美しく、それでいてどこか儚げな少女だった。

 少女も、樋里を見つめ返した。淡い二等星の輝きが目を突き刺した。

 そして、驚くべきことが起きた。


 樋里の脳内を、どこか漠然とした映像が駆け巡った。


 *  *  *  *  *


 これは、夢だろうか。どこか懐かしい、それでいてなぜか思い出したくないような、そんなおぼろげな記憶——。

 得体の知れない空間が広がっている。前方には、人がいた。あれは——まさか、あの少女? いや違う、そんなはずはない。自分があの少女を見たのはこれが初めてだし、特徴から見ても別人だ。しかし、しかし——確かに、あの少女と同じ輝きを放っている。

 何故だろうか、目の前の彼女は、どこか遠くに行ってしまうような気がする。そして、二度と帰って来ないような気がする。さらに、不思議なことに——それが、悲しくて、あるいは怖くて仕方がない。

「行かないで! お願いだから!」

 考えるよりも先に、言葉が口を衝いて出た。

 その声を聴いて、彼女はこちらを振り返る。

 彼女は、笑っていた。いや、こちらに向かって微笑んでいるのか。分からない。彼女はこちらに手を振ったかと思うと、また前方へと歩き出してしまった。

 ああ、行ってしまう。耐え切れず、飛び出そうとしたが——体が動かない。何か不気味なものに、体を掴まれている。

 離してくれない。行かせてくれない。どうして。悲しい。寂しい。辛い。何故。怖い。待って。待って、待って、待って、待って、待って、待って、待って、待って——。


 *  *  *  *  *


「あなたは……誰?」

 少女の声で、樋里の意識は現実に戻った。あれは一体何だったのだろうか、あの女性は誰だったのだろうか——そんなことに思索を巡らせていたい思いもあったが、今はそんなことを考えている場合ではない。

 目の前の少女は、既に体を起こしていたが、ひどく怯えていた。体が小刻みに震えている。それは、十一月の寒さゆえではない。樋里に対する恐怖の発現であった。

 よく考えてみれば、至極当然のことだ。「非東京人」を追い出す際に使われた催眠ガス?か何かの効果が長時間持続したのか、何らかの原因で、一人ここで眠りに落ちてしまったのかは分からないが、なにせ目が覚めたところに見知らぬ成人男性がいたのだ。誰だって、起き抜けの寝惚ねぼまなこにいきなり見知らぬ人が映れば、恐怖を感じるというものだ。とりあえず、名を名乗ることにした。

「僕は——樋里数馬と言います。二十六歳で、一応、政治家をやっている——いや、やっていたんですが、クーデターでこの一帯が大変なことになっているので、政府から派遣されてこのあたりの基地で市民兵の取りまとめ役をやっていたり——えーっと……何卒、宜しくお願い致します」

 なんだか変に改まった自己紹介をしてしまった。なぜか御辞儀までしてしまった。初対面の相手に対して満足のいくコミュニケーションが取れないのは、昔から直らない欠点の一つだ。

「このあたりで……じゃあ、多摩の人……?」

 少女は、恐る恐る、言葉を絞り出すように、質問した。

「え、ええ。僕は檜原村の出身で……」

「そう……」

 少女は、なぜか少しばかりの安堵の表情を見せた。ひとまず、警戒はある程度解いてもらえたようだ。しかし、中学生くらいに見えるとはいえ、まだ子供だ。きっと、親も心配していることだろう。可能であれば、親元に返してあげた方がいい。まずは名前を訊くことだ。そう思って、樋里は、これまた恐る恐る質問をする。

「えっと……あなたのお名前は?」

 少女は何も答えなかった。

 失敗した。いきなり名前を聞くのは愚策だったか。こちらも名乗ったとはいえ、見知らぬ大人にいきなり名前を教えるなんてできない、というのも分かるかもしれない。いや、あるいは最近の子供はそういう風に学校で始動されているのか……? しかし、引き下がることも出来ない。少女をここに放っておくことなど、出来るはずもない。それは、自分自身の常識というか、倫理観というか、良心が許さない。樋里は、慎重に、慎重に、言葉をつむぐ。

「あー……ごめんなさい、いきなり名前を訊くのはちょっと失礼でしたね……でも……とはいっても、あなた、多分——親とはぐれてしまったんじゃないですか……? いや、違ったら申し訳ないのですが……一人の人間として、見て見ぬ振りも出来ないというもので、なんというか——」

「帰る場所は……ない」

「……えっ」

 樋里は文字通り耳を疑った。彼女は今、確かに「帰る場所はない」と言った。そんなことがあるだろうか? この二〇七五年に、孤児が路上生活を強いられるなどということがあり得るとは——。

「えっと……樋里さん、で良いですか……?」

「は、はい」

 咄嗟に情けない声で返事をしてしまった。なかなか恥ずかしい。

「さっき、このあたりの基地、と……仰ってましたよね?」

「ええ、吉祥寺パルコの中、何十人かで共同生活を——」

「じゃあ……そこに連れて行ってくれませんか?」

「えっ」

 意表を突かれた。たしかに、いっそこちらで引き取ってしまうというのも、選択肢の一つとしてはある。しかし、前線基地は、生活拠点である以前に基地である。劣悪な環境であることは間違いない。それならば、もっと西の方の、安全な施設か何かに預けた方が良いのではないか、と思ったが——。


(グゥー……)


 お腹の鳴る音が聞こえた。少女の方を見やると、頬を紅潮させて目を細め、お腹に手を添えている。

「えっと……連れて行ってもらっちゃ、駄目ですか……?」

 こんなところで寝ていたのだ。長らく食事もとれていないのだろう。とりあえず、こちらで何か食べさせてあげた方が良い。

「——分かりました。とりあえず、基地まで行きましょう。食べ物はまだ沢山あるはずです」

 その頃にはもう、樋里の中で渦巻いていた激しい嫌悪感、そしてそれに伴う吐き気も、幾分かはましになってきていた。基地の人々への気まずさが消えたわけではないが、少女を保護するというのは、ちょうど良い口実にもなる。少女には申し訳ない言い方になるが。

 そんな樋里の言葉を聞いた彼女は、目を輝かせてこう言う。

「……ッ! ありがとうございます……っ!」

 そして、徐に立ち上がると、樋里の方を向いて、

「私は……八千代やちよって言います。十四歳で……いや、それは良いか……とにかく——これから……よろしくお願いします!」

 と御辞儀をした。

 そして、彼女は顔を上げる。


 彼女は、確かに樋里に向かって微笑んでいた。


 二人は、吉祥寺前線基地を目指して歩き始めた。

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