第2節 杉並区

第4話 吉祥寺前線基地

 一行の車は五日市街道に入り、東へ東へと進んでいく。上を見上げれば、この絶望としか言い表しようのない状況には到底そぐわないような、雲一つない青空が広がっている。とは言っても、地上に目をやるとそれはそれで、やはり地獄の沙汰さた以外の何物でもない光景が目に入ってしまう。それゆえ、樋里は空を見上げていた。

 混乱は未だに続いており、特に反対車線は非常に混雑している。ツイッターでは、「東京脱出」がトレンド入りしていた。つまりは、そういうことだろう。特に、東京以外に実家を持っている人にとって、東京にとどまっている理由はない。樋里も檜原の実家に帰っていれば安全だっただろうが——今はそんなことを考えている場合ではない。ただ、当然ながら、わざわざ二十三区方面に近付いていくような物好きは、彼らの他にはなかなかいなかった。

 やがて、右手に境浄水場が現れた。ということは、もう武蔵境駅付近まで来たということだ。ここまで来てしまえば、吉祥寺はもう近い。車は井之頭通りを進む。

 さらに数分進んだところで、中央線の高架が見えてきた。それをくぐれば——吉祥寺駅だ。

 吉祥寺の市民兵たちは、このあたりの商業施設を拠点とすることに決めたらしい。なるほどこれは合理的だ。支援物資等が届くかどうか分からない状況でも、こういった商業施設なら、まだある程度の備蓄が残されているかもしれない。吉祥寺が商業で栄えていたが故にとれる行動だ。

 車を降り、吉祥寺パルコに入ろうとする——車は、ひとまず路上に停めさせてもらった——と、こちらでもやはり身分証等の提示を求められた。

「話は既に聞いていると思うが、我々が政府から派遣された押立と樋里だ」

 その他、入念にチェックされたうえで、ようやく入れてもらえた。こういったところで政府よりも対策が厳重なのは……なんだか皮肉なものだ。今度立川に行くことがあったら、打診してみよう。

 中に入ると、人が数十人ほどいた。これが「義勇軍」の人々らしい。

「本日より、こちらの『吉祥寺前線基地』を監督させていただきます、樋里数馬と申します。何卒宜しくお願い致します」

 樋里がそう丁寧に挨拶あいさつすると、隊の中からいかにも屈強そうな男が一人近付いてきた。

「ええ、よろしくお願いします。しかしあなた——ただの政治家だそうじゃないですか。こんな状況下で人手不足だとは聞いてますけど、私にゃあなたが頼りになるようには到底思えない」

 いきなり手厳しいことを言われてしまった。ぐうの音も出ない。全く以ってその通りで、そもそも政治家が前線基地に来るなんてのは、とんだ常識外れとしか言いようがないのだ。そう思って、樋里が何も言い返せずに黙っていると、

「まあ、そんなに重く受け止めていただかなくても結構ですよ。私は金森忠生かなもりただおと言います。一応、皆さんが来る前の纏め役みたいな役割をやっていました。どうぞよろしく」

 と、気を遣われてしまった。前途多難とはまさにこのこと。樋里は金森に軽く会釈をした。今度は若い女性が近付いてきて、こう言う。

「へえ、政府ってこういう頼りなさげな青二才を戦場に送り出しちゃうのか~。まあ、融通の利かない老人に来られるよりはよっぽどマシだけどね。私は長沼若葉ながぬまわかばってんだ。よろしくね」

 褒められているのか貶されているのか分からない。微妙に後者が優位な気がする。またしても、何も言えなかった。

 そして、自己紹介のタイミングを逃していたのだろう、押立は、「ようやくだ」とでも言わんばかりの表情で、

「同じく政府から派遣されました、押立是政と申します。皆さんにお力添えできるよう、精進いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします」

 と言った。その刹那、隊の中から男性が二人と女性が一人駆け寄ってきて、

「まさか押立先生が来て下さるとは! 本当にありがたい限りです、どうか我々を、吉祥寺前線基地をよろしくお願いいたします」

 みたいなことを言って、握手を要求した。「これが好感度の差か」と樋里は痛感した。自分も言葉遣いは押立と同じくらい丁寧だったはずなのだが。なんだか気に食わないので、樋里はさっそく本題に入る。

「さて、皆さん、お聞きください。既にご存知の方も多いかとは思いますが、今朝、再び築地ついじ都知事による宣言が発出されました。いわく、『吉祥寺を手中に収める』とのこと。我々は、それを何としても食い止めなければなりません。そのためには、皆さんの協力が必要不可欠です」

 金森は「もちろんそのつもりだ!」と威勢よく呼応する。

「我々の力で……みんなの『吉祥寺』を守り抜きましょう!」

 数十人もの人々がいるにも拘わらず、樋里が期待していたような「はい!」という返事は疎らにしか聞こえなかったが、こうして、樋里数馬の、吉祥寺前線基地での生活が、本格的に幕を開けたのであった。

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